かのう えい とく。 狩野永徳(かのう えいとく)掛け軸の価値・買取相場・査定情報

狩野永徳を5分で!「唐獅子図屏風」はなぜ国宝じゃない?│れきし上の人物.com

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大徳寺見どころ 大徳寺見どころ・簡単まとめです。 方丈(国宝)は正面約29メートル・側面約17メートルです。 方丈・玄関は一休さん(一休宗純)の参徒で、豪商・後藤益勝(ごとうますかつ)の寄進により、開祖である大燈国師・宗峰妙超の300年遠忌を記念して建立され、江戸時代初期に完成しました。 (大徳寺見どころ下記参照) 目次• 【大徳寺見どころ 基礎知識】 大徳寺(だいとくじ)は1315年(正和4年)に臨済宗の僧である大燈国師(だいとうこくし)・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が赤松円心(あかまつえんしん)の帰依を受け、紫野に小堂・大徳庵を建立したのが起源とも言われています。 その後1325年(正中2年)に花園上皇(第95代・花園天皇)が宗峰妙超に帰依し、持明院統(北朝)の祈願所にしました。 しかし1453年(享徳2年)の火災や応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、1474年(文明6年)に大徳寺第48代住持になった一休さん(一休宗純)が再興しました。 方丈・玄関は境内の北にあり、土塀に囲まれています。 方丈には前後2列・左右4列の計8室があり、玄関は土間廊です。 方丈・玄関は一休宗純の参徒で、豪商・後藤益勝(ごとうますかつ)の寄進により、開祖・宗峰妙超(大燈国師)の300年遠忌を記念して建立されました。 方丈は1635年(寛永12年)、玄関は翌1636年(寛永13年)に完成しました。 なお方丈は桟瓦葺の入母屋造、玄関は桟瓦葺の唐破風造です。 8メートル・側面約17メートルです。 唐門は四脚門(向唐門)です。 唐門には随所に龍・鯉などの彫刻があります。 唐門は安土桃山時代(1573年~1614年)に関白・豊臣秀吉が造営した聚楽第(じゅらくてい)の遺構を越後国村上藩主・村上忠勝(むらかみただかつ)が譲り受けて移したと言われています。 唐門は2003年(平成14年)の京都府教育委員会による解体・修理の際、飾り金物から天正の刻銘が発見されました。 なお唐門は檜皮葺の切妻造です。 山門は五間三戸二階二重門で、両脇に山廊があります。 下層は1525年(大永5年)に連歌師・宗長(そうちょう)らが寄進し、上層は1589年(天正17年)に千利休(せんのりきゅう)が設けて、千利休が金毛閣(きんもうかく)と名付けました。 金毛とは金毛の獅子(優れた禅僧)を意味するそうです。 なお山門は本瓦葺の入母屋造です。 仏殿は山門と法堂の間にあります。 仏殿は天井に剥落が進んでいるが、絵師・狩野元信(かのうもとのぶ)が描いた雲龍図があります。 仏殿は応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、一休宗純が再建し、1665年(寛文5年)に京都の豪商・那波常有(なわじょうゆう)の寄進によって改めて建立されました。 なお仏殿は本瓦葺の入母屋造です。 法堂は仏殿の北にあります。 法堂は天井に絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が描いた雲龍図があります。 法堂は応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失し、一休宗純が再建し、1636年(寛永13年)に稲葉正則(いなばまさのり)が父・正勝(まさかつ)の遺志によって再建しました。 なお法堂は一重もこし付で、本瓦葺の入母屋造です。 【大徳寺 雲龍図・見どころ】 雲龍図(鳴き龍)は法堂のドーム状になった天井にあります。 雲龍図は敷瓦の上で手を叩くと雲龍図に共鳴することから「鳴き龍」とも言われています。 雲龍図は絵師・狩野永徳(かのうえいとく)の孫で、絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)が35歳の時に描きました。 寝堂は法堂と方丈の間にあります。 寝堂は応接間として使われました。 寝堂は1630(寛永7年)に毛利家の家老・益田玄蕃頭元祥(ますだげんばのかみもとなが)が建立したと言われています。 なお寝堂は檜皮葺の切妻造です。 【大徳寺 経蔵・見どころ】 経蔵は重要文化財です。 経蔵は仏殿の東にあります。 経蔵には経典を納める八角輪蔵(はっかくりんぞう)があります。 経蔵は1636(寛永13年)に那波宗旦(なわそうたん)が再建しました。 なお経蔵は本瓦葺の宝形造です。 庫裏は本来台所です。 庫裏は応仁の乱(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失したが、1636年(寛永13年)頃に淡路屋寿源(淡路屋某法名滴澗)が再建しました。 庫裏は旧方丈の古材によって修復されたとも言われています。 なお庫裏は切妻造です。 【大徳寺 浴室・見どころ】 浴室は重要文化財です。 浴室は山門の東にあります。 浴室には南宋の書家・張即之(ちょうそくし)が書いた額が掛かっています。 浴室は1620年(元和8年)に京都の豪商・灰屋紹由(はいやじょうゆう)が再建しました。 なお浴室は本瓦葺です。 【大徳寺 侍真寮・見どころ】 侍真寮(たいしんりょう)は重要文化財です。 侍真寮は宗務本所の東にあります。 侍真寮は後継住持の居室です。 侍真寮は室町時代後期(1467年~1572年)に建立されました。 なお侍真寮は桟瓦葺の切妻造です。 2メートル・梁間約4メートルです。 【大徳寺 鐘楼・見どころ】 鐘楼は重要文化財です。 鐘楼は法堂の東にあります。 鐘楼は1583年(天正11年)に建立されました。 なお鐘楼は袴腰付で、本瓦葺の入母屋造です。 勅使門は山門前にある四脚門です。 勅使門は慶長年間(1596年~1614年)に建てられた御所・陽明門(ようめいもん)を1640年(寛永17年)に第108代・後水尾天皇から賜って移しました。 勅使門は檜皮葺の前後唐破風造・左右切妻造です。 【大徳寺 梶井門・見どころ】 梶井門(開けずの門)は旧大宮通に面しています。 梶井門は延暦年間(782年~806年)に伝教大師・最澄が創建した三千院(梶井御所)の門だったが、三千院は(1467年(応仁元年)~1477年(文明9年))の兵火によって焼失して大原に移り、梶井門だけが残されました。 方丈庭園は枯山水式庭園です。 方丈庭園は方丈の前に広がる南庭と方丈の東にある東庭に分けられます。 東庭は江戸時代初期に小堀遠州が作庭、南庭は1636年(寛永13年)に大徳寺169世・天佑紹杲(てんゆうじょうこう)が作庭したとも言われています。 【大徳寺 千体地蔵塚・見どころ】 千体地蔵塚(千躰地蔵塚)は勅使門の東、塔頭・興臨院(こうりんいん)の北にあります。 千体地蔵塚の地蔵の数は千体ではなく、約700体だそうです。 千体地蔵塚のお地蔵さんには防空壕を掘る際に出てきたものもあるそうです。 【大徳寺 イブキの木・見どころ】 イブキ(伊吹)の木は京都市天然記念物です。 イブキの木は仏殿の前にあります。 仏殿は1665年(寛文5年)に再建されたことからイブキの木もその頃植えられたと言われています。 イブキの木はヒノキ科の植物で、本州(宮城県以南)・四国・九州に分布しています。 【大徳寺 曝凉展・見どころ】 毎年10月の第2日曜日に曝凉展(ばくりょうてん)が行われます。 曝凉展は通常非公開である大徳寺本坊で行われる虫干しの寺宝展です。 なお曝凉とは夏や秋などの天気がよく乾燥した日に風を通して虫やカビを防ぐものです。 なお塔頭(たっちゅう)は祖師や高僧の死後、その弟子が祖師・高僧を慕って寄り沿うように創建した小さな寺院です。 【大徳寺見どころ 備考】.

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【安土城郭資料館】アクセス・営業時間・料金情報

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桃山時代の画家。 名は州信 くにのぶ。 祖父のを受け,早くから画才を発揮,に認められ,1576年の安土築城に際し起用され,一門を率いて天守や御殿のを。 のちに重用され,大坂城, じゅらくだい ,院御所,天瑞寺などの障壁画制作に従事した。 作品のほとんどは,建築とともに失われたが,の襖絵 ふすまえ 《花鳥図・琴棋書画図》は20代前半の作品で,《屏風》(上杉本)など,筆力の強さと動感に富む表現は,その天才を物語るもの。 永徳の素質と,専制君主の美的趣向との結付きによる豪壮闊達 かったつ な様式は,長谷川,海北ら諸派にも影響を与えて一つの時代様式をつくり,桃山画壇におけるの指導的地位を確立させた。 14 1590. 12 生年:12. 13 1543. 16 桃山時代を代表する画家のひとり。 曾祖父正信より続く京都の絵師の家に生まれた。 狩野松栄の長男。 天文21 1552 年,祖父元信が幼い永徳を引き連れて室町幕府将軍足利義輝への正月参賀に赴いたことが知られ 『言継卿記』 ,若年より祖父の訓育を受けて狩野家総領としての将来を嘱望されていたものと想像される。 三好長慶の菩提を弔って永禄9 1566 年に創建された大徳寺聚光院の障壁画は,父松栄と共に弱冠24歳の永徳が制作に当たったが,方丈の主室である室中は永徳が担当して「四季花鳥図」を描き,翌10年には近衛前久邸の座敷絵制作が記録され 『言継卿記』 ,活躍の片鱗がうかがえる。 30,40歳代の永徳は,織田信長の安土城 1576 ,豊臣秀吉の大坂城 1585 と聚楽第 1587 ,正親町院御所 1586 ,秀吉が生母天瑞院のために大徳寺山内に建立した天瑞寺 1588 ,京都御所 1590 など,時の権力者の建築物の室内を飾る障壁画をつぎつぎと手がけた。 城や御所などの大規模な建築の障壁画制作を一手に請け負うことができた理由は,すでに元信の代に仏画から肖像画,絵巻,画まで,あらゆる画法を修得して幅広い注文に応じられる工房制作の方式が整えられ,これを継承した工房の拡充に永徳が成功したことがあげられる。 同時に,元信の画法を基礎に置きながら,変化に富んだ時代と,新興武家などに拡大した受容者層の好みを先取りするスタイルを創り上げたことも大きい。 『本朝画史』 1693 に,武家諸侯が大邸宅を築いて金壁を設けるときは必ず永徳の画を求めた,と記されているように金碧障壁画にその手が発揮された。 しかも「長さ10,20丈もある松梅や3,4尺もある人物」を粗放な筆法で描き,水墨画の時は藁筆を使う「大画」は新意に満ちた怪々奇々のだったと評されている。 秀吉以降に造られた大広間の巨大な壁面のために永徳が工夫した画法が,桃山画壇に与えた影響は少なくない。 しかし,永徳のとなるべき多くの障壁画は建物と運命をともにして今には伝わらず,聚光院の障壁画のほか「唐獅子図屏風」 蔵 ,上杉本「洛中洛外図屏風」 米沢市蔵 ,障屏画の断片を掛幅に改装した「許由巣父図」 東京国立博物館蔵 と「伯夷叔斉図」など,従来から永徳画と考えられてきた遺品は少ない。 天正18 1590 年の八条宮智仁親王邸の障壁画と伝承される「檜図屏風」 東京国立博物館蔵 を,その作風から永徳画と判断する説があり,また,南禅寺本坊の障壁画の前身が正親町院御所のそれと推測されるので,この中に永徳画が含まれている可能性もある。 永徳の死後は,愛児鶴松の死を悼んだ秀吉が天正19年に創建した祥雲寺の障壁画 現智積院障壁画 の制作が一派の手に落ち,画壇での地位を一時脅かされたが,狩野家は,その後一族の勢力を結集し,徳川幕府に重用される門派の基礎を確保することに成功した。 『障壁画全集 大徳寺真珠庵・聚光院』,土居次義『永徳と山楽』,武田恒夫『日本の美術94号 狩野永徳』 至文堂 鈴木廣之 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 [生]天文12 1543. 京都 [没]天正18 1590. 京都 桃山時代前期の画家。 の長子,初名は源四郎,のち州信 くにのぶ と改名。 永徳は号。 祖父元信から直接絵を学び,早くからを発揮。 永禄9 1566 年 24歳で大徳寺聚光院客殿の『四季花鳥図』『琴棋書画図』襖絵 ともに を描き,翌 10年から近衛家の座敷絵を弟子とともに制作したことが『言継卿記』より知られる。 やがて織田信長の寵遇を得て,安土城の天守および御殿の障壁画制作を狩野一門の画人を率いて担当。 安土城は焼失したが,大画面構成による金碧障壁画は,当時の英雄趣味に合致してもてはやされ,桃山絵画の主流となった。 信長死後も引続き豊臣秀吉の恩顧を受け,天正 11 83 年大坂城,同 14年聚楽第,正親町院御所,同 16年天瑞寺などで次々に障壁画制作を行なったが,同 18年天正内裏に揮毫中,48歳で急逝。 これら障壁画は,南禅寺本坊大方丈障壁画中に永徳画遺在の可能性を残すほかはすべて建物とともに失われたが,雄大な永徳画風の一端は『唐獅子図屏風』 宮内庁三の丸尚蔵館 や『檜図屏風』 国宝,東京国立博物館 から知られる。 これら大画作品のほか『洛中洛外図屏風』 上杉家 のような細密画や,水墨の『許由巣父図』 東京国立博物館 も残るが,名声のわりに確実な遺品に乏しい。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 安土 あづち 桃山時代を代表する画家。 狩野松栄 しょうえい 直信 なおのぶ の長子。 名は初め源四郎、のちに州信、永徳はその号である。 幼年より祖父元信 もとのぶ の薫陶を受け、彼の天才はその期待によくこたえた。 1566年(永禄9)弱冠24歳にして、父直信とともに大徳寺聚光院 じゅこういん の障壁画 しょうへきが を制作、『花鳥図』『琴棋書画図 きんきしょがず 』を描く。 ことに前者は襖 ふすま 16面にわたって、松に鶴 つる 、芦 あし に雁 がん 、梅に小禽 しょうきん を近景的構図のうちに展開させたもので、ダイナミックな躍動感にあふれ、この青年画家のほとばしるような若さの発露の表現であるとともに、壮麗な桃山障壁画の開幕を告げる記念碑的大作である。 そうした永徳の大画面様式は、新時代の覇者織田信長、豊臣 とよとみ 秀吉の共感をよび、安土城(1576)、桃山城(1584)、聚楽第 じゅらくだい (1587)など、当代を代表する建造物の障壁画はすべて永徳の指導下に制作された。 わけても信長が築いた安土城の天守や御殿の障壁画は、『信長公記 しんちょうこうき 』が伝えるように、あらゆる画題、あらゆる技法を駆使したもので、障壁画史上画期的な偉業であった。 しかしこれら膨大な作品は建築物と運命をともにしたため、永徳の遺作はその巨名に比し意外に少ない。 そのなかで彼の代表作としてあげるべきものには、前記の聚光院襖絵以外に、1574年(天正2)信長が上杉謙信に贈った『洛中洛外図屏風 らくちゅうらくがいずびょうぶ 』(上杉家)、『唐獅子 からじし 図屏風』(御物 ぎょぶつ )、『許由巣父 きょゆうそうほ 図』(東京国立博物館)がある。 南禅寺本坊大方丈の障壁画や『檜 ひのき 図屏風』(東京国立博物館)も彼の作である可能性が強い。 これらの障屏画 しょうへいが にみられる永徳の豪壮な様式は、単に狩野派のみならず、その後の桃山画壇に決定的な影響を与えた。 天正 てんしょう 18年9月14日没。 48歳。 さらにいっそうの飛躍が期待されてしかるべき年齢であった。 狩野永徳が1566年 永禄9 大徳寺聚光院の襖に描いた水墨《四季花鳥図》は,戦国大名三好氏のために描かれたものだが,若年の筆とも思えない大胆な筆使いと力動感みなぎる構図には,新しい時代の到来を思わせる爽快な響きがこもっている。 76年 天正4 から79年にかけ信長が築いた安土城の天主は,外部五重,内部7階のこれまでにない斬新な意匠と構造によるものであり,桃山美術の性格を決定づける上で,画期的意義を持つものだったと思われる。

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狩野永徳 京都通百科事典

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狩野秀頼筆 高雄観楓図 東京国立博物館 狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである。 狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代将軍に仕えた初代狩野正信とその嫡男・、元信の孫でやの障壁画を制作した、永徳の孫で京都から江戸に本拠を移し、、などの障壁画制作を指揮した、京都にとどまって「」と称された一派を代表するなどが挙げられる。 江戸幕府の体制が安定して以後の狩野派は、幕府の御用絵師として、内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。 膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は、一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。 そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。 こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。 ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、写生を重んじることで知られるやなど他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう。 芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない。 しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして日本の絵画史を語ることはできない。 近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の、写生派のなども初期には狩野派に学んでいる。 室町時代 [ ] 狩野元信筆 白衣観音図 ボストン美術館 狩野正信 [ ] 狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した(1434? - 1530)である。 彼は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。 正信の出自は上総伊北荘大野(現千葉県いすみ市大野)。 20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は足利()のと何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。 正信の画業として記録に残る最初の事例は、(1467 - 1477)の直前の4年()、30歳の時に京都の雲頂院(塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。 正信が壁画を描いた雲頂院の本寺であるは室町幕府3代将軍創建の禅寺で、、、らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・(小栗宗湛、1413 - 1481)が御用絵師として活動していた。 狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ室町幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、室町幕府8代将軍・足利義政に重用されていたことは諸記録から明らかである。 10年にわたった応仁の乱(1467 - 1477)終結の数年後の13年()、室町幕府の御用絵師であった宗湛が死去しており、狩野正信は、宗湛の跡を継いで幕府の御用絵師に任命されたものと思われる。 これ以後は、宮廷の絵所預(えどころあずかり)の職にあった大和絵系のと、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。 文明14年()、前将軍・足利義政は、東山殿(の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。 2年()の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていたに仕えるようになる。 正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。 記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。 その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。 正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の元信に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。 狩野元信 [ ] 狩野派隆盛の基盤を築いた、2代目・(1476 - 1559)は正信の嫡男で、文明8年()に生まれた。 現存する代表作は大仙院方丈の障壁画(方丈は10年()に完成)、12年()の霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。 大仙院方丈障壁画は、元信と弟・が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。 このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。 元信は時の権力者であった足利将軍や細川家との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。 武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあったの障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。 元信は晩年には「越前守」を名乗り、また「法眼(ほうげん)」という僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。 作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。 元信は父正信の得意とした漢画、にの画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。 また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。 安土桃山時代 [ ] 狩野長信筆 花下遊楽図(一双のうち) 東京国立博物館 国宝 元信には宗信、秀頼、直信の3人の男子があったが、長男の宗信は早世したため、宗家を継いだのは三男の直信(1519 - 1592)であった。 なぜ二男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。 直信は、道名のの名で広く知られ、室町から桃山に至る時代に活動した。 代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。 また、父・元信とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺聚光院(じゅこういん)障壁画制作には息子の永徳とともに参加しているが、父・元信と息子・永徳がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。 松栄の嫡男・(1543 - 1590)は州信(くにのぶ)とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。 、といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。 現存する代表作の一つである方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、父・松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を息子の永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。 封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。 聚光院方丈障壁画のうち、室中(しっちゅう、方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。 その後、永徳は4 - 7年(1576 - 1579年)、織田信長が建立した天守の障壁画制作に携わった。 信長亡き後は豊臣秀吉のやの障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。 これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅してしまった。 現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧の『唐獅子図屏風』、伝来の『屏風』が名高く、の『檜図屏風』も古来永徳筆と伝えるものである。 永徳は細画(さいが)と大画(たいが)のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。 細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。 近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。 国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野元信の次男・(生没年未詳)の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。 (そうしゅう、1551 - 1601)は元秀(もとひで)とも称し永徳の弟で、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。 屏風、肖像画などの現存作がある。 やはり永徳の弟である(1577 - 1654)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。 狩野家直系以外の絵師としては、川越・の『職人尽図屏風』の筆者である(1552 - 1640)、京都・の『豊国祭図屏風』の筆者である(1570 - 1616)らが知られる。 また、関東では元信の弟子筋に当たる 小田原狩野派といわれる絵師たちがおり、や玉楽、官南などの名が伝えられている。 江戸時代前期 [ ] 狩野興以筆 花鳥図 ホノルル美術館 狩野永徳は父の松栄(直信)に先立って48歳で没した。 その後を継いだのは永徳の長男・(1565? - 1608)と次男・(1571 - 1618)である。 光信は、勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な、風の繊細な画風を特色とした。 こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。 狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の(1597 - 1623)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。 封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し後継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。 孝信には守信(探幽、1602 - 1674)、(1607 - 1650)、(1613 - 1685)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。 末弟の安信は前述の貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。 守信は、後に出家して探幽斎と称し、画家としてはの名で知られる。 後に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。 探幽は幼少時より画才を発揮し、17年()、11歳の時に駿府でに対面、7年()には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。 探幽の作品のうち、江戸城と大坂城の障壁画は建物とともに消滅したが、上洛殿の障壁画(水墨)は第二次大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため空襲をまぬがれて現存しており、他に二条城二の丸御殿や大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。 これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。 二条城二の丸御殿障壁画は25歳の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。 絵巻や屏風には大和絵風の作品もある。 探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。 「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。 江戸時代中期以降 [ ] 江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。 「 奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「 表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「 町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。 この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。 また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。 こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。 奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。 奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の 鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の 木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の 中橋家、それに(みねのぶ、1662 - 1708)の系統の 浜町家である(岑信は、狩野尚信の長男であるの次男)。 探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(、1625 - 1694)を養子とした。 後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である(1653 - 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。 探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。 守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。 前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。 安信の子の(1642 - 1678)は30代で没し、その子の(もりのぶ、号は 主信 しゅしん、1675 - 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。 都会的な画風で人気を博した(はなぶさいっちょう、1652 - 1724)は安信の弟子であった。 奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の木挽町家である。 この家系からは尚信の嫡男の(1636 - 1713)、その子の(ちかのぶ、1660 - 1728)と(みねのぶ、1662 - 1708)らが出ている。 岑信は将軍・の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。 このほか、(? - 1636)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後にに仕えている。 また、も他家の出身ではあるが、狩野松栄に絵を学び、子孫は 表絵師の狩野家として幕末まで続いた。 一方、京都に残って活動を続けた「 」という一派もあり、狩野永徳の弟子であった(1559 - 1635)がその中心人物である。 山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。 京都・宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。 樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。 山雪の残した画論を、子の(1631 - 1697)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『』である。 木挽町家からは、江戸時代後期に(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、 (せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)などが出ている。 晴川院養信は、9年()と同15年()に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。 障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。 晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。 一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。 晴川院の次代の(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった(下関出身、1828 - 1888)と(川越出身、1835 - 1908)がいた。 芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。 職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。 画系図 [ ] 正信から探幽まで [ ] 1840-1872• 点線は養子。 参考文献 [ ]• 編 『江戸の狩野派』 〈日本の美術262〉、1988年3月• 松木寛 『御用絵師狩野家の血と力』 〈講談社選書メチエ〉、1994年10月、• 『狩野派絵画史』 、1995年12月、• 監修 安村敏信 山本英男 山下善也執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 〈別冊太陽〉、2004年9月、• 安村敏信 『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』 、2006年12月、 展覧会図録• 『知られざる「御用絵師の世界」展 第1回江戸開府-元禄 徳川将軍家・御三家・諸大名家の美の系譜』 朝日新聞社編、1992年• 『狩野派の三百年』 、1998年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。

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