いつの日にか時は流れ 歌詞。 WANIMA いつもの流れ 歌詞

四季の歌: 二木紘三のうた物語

いつの日にか時は流れ 歌詞

作詞・作曲:荒木とよひさ、唄:芹 洋子 1 春を愛する人は 心清き人 すみれの花のような ぼくの友だち 2 夏を愛する人は 心強き人 岩をくだく波のような ぼくの父親 3 秋を愛する人は 心深き人 愛を語るハイネのような ぼくの恋人 4 冬を愛する人は 心広き人 根雪をとかす大地のような ぼくの母親 ラ ララ ララララ…… 《蛇足》 荒木とよひさは昭和18年(1943)、 中国・大連生まれ。 日大芸術学部在学中から音楽活動を始めました。 昭和39年(1964) にスキーで大骨折し、2年半という長期入院。 その折、親切にしてくれた看護婦たちに感謝の気持ちを込めて作ったのがこの歌です。 看護婦たちからその友人・知人たちへと広まっていきましたが、作詞・作曲者の名前は知られないままでした。 昭和51年(1976 、ニッポン放送の生放送番組『あおぞらワイド』にこの曲のリクエストが寄せられましたが、番組のパーソナリティもスタッフも知らない歌だったので、聴取者に情報提供を呼びかけました。 それにより、 この歌は注目を集め 、やがて荒木とよひさが作詞・作曲者だと判明しました。 同年、レコード各社が競作しましたが、 声質が歌の内容に合っていたせいか、 芹洋子の歌が いちばん人気を集め、大ヒットとなりました。 中国でも、『四季之歌』というタイトルで広く愛唱され、千昌夫の『北国の春』と並んで、日本の代表的な歌の1つとして記憶されているといいます。 この歌は、上がり下がりが少なくて歌いやすいメロディと、単純で覚えやすい歌詞が大ヒットの要因でしょう。 心の清い友人と心の強い父親、心の深い恋人、心の広い母親がそろっていれば、人間関係については、まずあまり不満はいえません。 人生に欠かしたくない4人を四季に当てはめたのが、この歌詞の秀逸な点だといえましょう。 荒木とよひさは、30代半ばから作詞に専念するようになり、テレサ・テン『愛人』『時の流れに身をまかせ』『つぐない』、堀内孝雄『恋唄綴り』、 森昌子『哀しみ本線日本海』、高山厳『心凍らせて』、桂銀淑『すずめの涙』など、多くのヒット曲を生みました。 (二木紘三) この曲は昭和46年,学生だった荒木とよひささんが妙高高原でのスキーで骨折して入院中に作った歌で、退院時に看護婦さんに教え、最初のうちは看護婦さんたちにより歌い継がれたといいます。 その後、昭和51年にニッポン放送の「あおぞらワイド」という番組に一主婦がリクエストしてから評判になり、芹洋子盤はじめ各社の競作となったミリオンセラーだそうですね。 私の母は28年前 '80 に亡くなりましたが、生前この歌が大好きでよく鼻歌で歌っていました。 だから、私はこの歌を歌うと以前はかならず胸が詰まって歌えなくなりました。 その後、60歳を過ぎて埼玉県の「いきがい大学」に入学したら、毎回、朝、この歌を歌ってから勉強がスタートしましたので泣かなくなりました。 校歌になっていました。 ちなみに、帰るときは「今日の日はさようなら」です。 心が洗われるようなきれいな歌ですね。 彼の奥さんは22歳年下の演歌歌手、神野美伽さん。 独学でハングルを習い、韓国歌謡も歌います。 私もハングルを勉強して韓国歌謡を日本語訳したり、その逆をしたりして一人で楽しんでいますので、ご夫婦お二人のファンです。 二木先生、この歌を取り上げてくれて有難うございました。 投稿: 吟二 2009年2月 1日 日 20時55分 山岸勝榮氏の英訳です。 If spring is your favorite time of year, You surely have a pure heart, Pure as a violet, smelling so sweetly. And you're a precious friend of mine. If summer is your favorite time of year, You surely have a strong heart, Strong as an ocean-breaker, dashing so forcefully. And you're just like my dear dad. If autumn is your favorite time of year, You surely have a deep heart, Deep as a poet like Heine, singing so passionately. And you're a love poet of mine. If winter is your favorite time of year, You surely have a big heart, Big as Mother Earth, thawing the snow so gently, And you're just like my dear mom. 投稿: 海道 2012年8月 1日 水 21時28分 大学ではユースホステル部に所属していましたが、部の看板とは異なり、活動の主体は山登りでした。 それとは別にユースホステル YH は一人旅の格安の宿泊所として利用させてもらいました。 YHの宿泊客は大学生・高校生が中心で、若者の出会いの場でもありました。 大抵夜8時頃からミーティングがあり、宿泊客が自己紹介をした後に、ヘルパーという住み込みのアルバイトの指導でサークルゲームをしたり、合唱をするのが一般的でした。 最近の若者はYHを利用しなくなり、その数も減っているようです。 私の高校生の長男は山岳ワンゲル部に所属していますが、テントで歌ったりはしないそうです。 若者が山のテントで、YHで、歌声喫茶で合唱した時代は遥か昔になってしまいました。 投稿: yoshi 2013年7月21日 日 10時17分 この歌は、素直な気持ちになれるというか、じつにさわやかな歌です。 (それにカラオケなら一年中歌えます)よくまあ、春夏秋冬の各季節に、かけがえのない4種類の人(友人、恋人、父、母)を対応をさせたものだと、歌詞の作りに感心ます。 しかし、最近気づいたことですが、4番の歌詞の「根雪をとかす大地のような」を、よーく考えると「あれ?それはすでに春ではないですか」と思いました。 冬の大地が根雪をとかすのではなく、春の太陽がとかすのです。 大地という仲介物が入ることによって「大地のような母」というイメージができあがり、「冬のような母」という、はじめの決め事、約束が忘れられているような感じです。 イメージのすりかえという感じです。 つまり1番から3番までは「季節」を歌っていますが、4番は「大地」を歌っているのではないか、と思うのです。 「春のような友」「夏のような父」「秋のような恋人」ときて「大地のような母」となっており、「冬のような母」とはなっていないような気がしますが・・・・どうでしょう。 この歌をけっしてけなしているのではなく、母を冬に対応させて歌う難しさを、閑人(ひまじん)がふと思ったという話であります。 投稿: 紅孔雀 2013年11月12日 火 14時31分 1967~8年頃あちこちのTVで「すがはらやすのり」さんが「四季の歌」をやさしい暖かな雰囲気で歌っていらしたのが鮮明に記憶にあります。 良い歌だったなぁ・・・。 すがはらやすのりさんは、その後海外ボランティアで、日本に不在で歌は日本でヒットしているのに、歌手は海外遠征中。 その時TVで「四季の歌」を歌い始めたのが「芹洋子」さん。 先日、芹洋子さんがTBSアナウンサーの安住さんに「四季の歌」を歌い始めたのは昭和51年とおっしゃっていましたが、もっと前にTVで拝見したことがありました。 芹洋子さんの記憶違いです。 私の若いころのすがすがしい思い出は大切にしたいなぁ。 投稿: take 2014年5月13日 火 12時26分 ハノイで週2日、日本語をベトナムの学生に教えています。 日本に出国する日が近づいたこの頃、日本の歌を教えてと頼まれ、『四季の歌』を紹介しました。 カラオケは6年ほどやっていませんが、アカペラでなんとか歌の指導をしました。 久しぶりにアドレナリンが出たような気分です。 友だち、恋人、父親、母親が、季節と組み合わせて登場するので、学生たちは大変気に入った様子でした。 家族、友だちを日本以上に大切にするお国柄です。 心清き、心強き、心深き、心広き、の概念も、それぞれ、ベトナム語にあります。 次は『みかんの花咲く丘』かな、リズム感なら『穂高よさらば』もいいなあ、などと考えています。 歌を通じて日本の心を外国人に伝える。 なかなか面白い遊びです。 投稿: 越村 南 2016年8月 9日 火 10時53分 私は昭和18年中国瀋陽市(満州国奉天市)生まれです。 昭和21年9月、3歳半の時に両親、乳飲み子の妹の4人で博多港に引揚げてきました。 高校卒業までは自然に恵まれ人情暑い熊本の山間部で育ちました。 周りの多くの人も貧乏な生活でしたがみんな助け合いながら楽しく暮らしていました。 現在 村の中心部にあった小学校は廃校になり学校跡地の石垣に当時の「下矢部東部小学校」の大きな看板が残されています。 この小学校は村人の誇りでした。 優しい「四季の歌」を耳にしますと当時の村の情景と「心の清い友人と心の強い父親、心の深い?、心の広い母親」を思い出します。 有難うございました。 投稿: けん 2016年8月 9日 火 21時49分.

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Atsushi:時の流れはいつの日も

いつの日にか時は流れ 歌詞

日本や台湾、香港をはじめとする東アジアで絶大な人気を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。 台湾を代表する歌手の一人。 日本ではどちらかというと演歌歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、台湾や香港などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて台湾民謡や英語のポップス、日本語ポップスのカバー曲なども多数含まれている。 日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1,000曲を越す。 1973年に香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔との出会いがきっかけで日本での活動を開始、ユニバーサルミュージックと契約し、アイドル歌謡曲路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューしたが、売れ行きが思わしくなかったため不発。 演歌路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、第16回日本レコード大賞新人賞を獲得する。 1984年から1986年にかけ、日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。 1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。 この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。 1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。 台湾での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。 テレサ・テンの作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えるという。

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蕾(つぼみ) コブクロ 歌詞情報

いつの日にか時は流れ 歌詞

5月21日は24節気の小満で、万物が成長して大地に満ちていく時季です。 先日、偶然にテレサ・テンが唄った「何日君再来(いつの日君帰る)」を耳にしました。 資料を調べてみたところ、この名曲は1930年から40年代の名歌手・周璇、李香蘭に歌われ、大ヒットした曲でした。 しかし、当時の政治の渦に巻き込まれ、国民政府も日本の植民地政府も、さらにその後に成立した新中国政府も、ずっとこの歌を禁じていました。 何故、この恋の唄は様々な政治勢力に禁じられてしまったのでしょうか?今回の中国メロディーはこの歌の裏に潜む物語と名歌手たちが歌ったそれぞれのバージョンをお楽しみください。 「いつの日君帰る」の誕生 美しい花は常に咲いているわけではなく 美しい風景は常に見ることができるわけではない 憂うより笑顔になりたいけれども 涙が零れる 今宵 お別れした後 あなたは次はいつ来てくれるのかしら これを飲んでしまったら これも召し上がって 人生で酔える時は何度もないわ 今を楽しんでちょうだい さあさあさあ 飲み終わったら話せばいいから 今宵 お別れした後 次はいつ来てくれるのかしら この曲は1936年7月、上海国立音楽専科学校の卒業茶話会で、卒業生の劉雪庵が即興でタンゴ舞曲を創作したものに由来します。 その後、映画「三星伴月」の監督・方沛霖はこの曲をすぐに気に入り、映画の脚本家・黄嘉漠に作詞させて、わずか17歳の周璇がこの挿入歌を歌いました。 「金の声」が広めた「いつの日君帰る」 周璇はこの当時の人気歌手で、彼女の歌声は「金嗓子(まるで黄金のような美しさ)」と呼ばれ、この「いつの日君帰る」は彼女が歌うことで大ヒットしました。 1938年の映画の上映に伴い、この歌は上海、南京、北京などの大都会、更に小さい町でも広く歌われるようになりました。 当時、日本の侵略軍が上海を占領し、数えきれない人たちが無残な目に会いました。 当局の国民政府は重慶に撤退し、多くの人々は憂うつとためらいを感じていました。 誰もが恋人や親友と離れて、孤独と苦しみを感じ、いつ家に帰れるのか、いつ恋人と再び会えるかもわかりません。 「いつの日君帰る」こそがその時代の人々の心の声を吐き出していたのです。 当時、上海のほぼすべてのカフェや百貨店、ダンスホール、ラジオでこの曲が流れていたそうです。 李香蘭で変わる運命 1940年代、愛国の歌として中国全土で広く歌われた「いつの日君帰る」は当時の人気歌手・李香蘭にカバーされた後は、その運命が大きく変わりました。 李香蘭の本名は山口淑子。 日本人の両親を持ちますが、幼い頃から父親の中国人の義理の兄に引き取られて暮らしていたため、中国語が堪能です。 14歳の時、彼女は美貌と音楽の才能で満州映画協会に選ばれ、侵略を美化するため、中国人スターのように仕立てあげられました。 李香蘭は当時の歌姫・周璇のファンで、彼女はそれぞれ中国語と日本語で「いつの日君帰る」をカバーし、日本でも高い人気を博しました。 しかし、日本の在中国審査機関は「いつの日君帰る」が抗日的な思想を持った歌で、中国の国民党政府を代弁するものであったため、「いつの日君帰る」が「国民政府の軍隊がいつ上海に帰る」、「中国の統治がいつ回復するのか」と呼びかけると解釈され、この歌は当時の日本で禁止されました。 一方、国民党政府には「いつの日君帰る」は中国人の日本へ徹底抗戦意識を和らげようとする亡国の歌であると見る人もいました。 共産党側は「いつの日君帰る」は上海の堕落した生活のリアルな描写であり、歌の中の女性は恋人がお酒を飲むことを勧め、抗日運動の参加を阻もうという意味に捉えていました。 そこで、多くの人々に親しまれたこの歌は様々な政治勢力に翻弄され、禁止曲になってしまいました。 「スパイ歌手」テレサ・テン 1978年の改革開放以降、香港、台湾、欧米のポップス音楽が中国大陸に押し寄せるようになりました。 テレサ・テンがリリースした新しいバージョンの「いつの日君帰る」はこの30年代の流行歌に活力を注ぎ、多くの人々の心を虜にしました。 しかし、戦争はとっくに終わっていたものの、硝煙の匂いはまだ台湾海峡両岸では消えていませんでした。 1960年、70年代の台湾芸能界では出国の許可を獲得しようとする芸能人は情報機関に参加しなければならなかったため、当時、わずか15歳のテレサ・テンも台湾国民党の諜報員となりました。 そんなテレサ・テンの「いつの日君帰る」は中国大陸で爆発的にヒットしましたが、「猥褻な歌で、半封建、半植民地の奇形的な産物」と批判されてもいました。 一方、その時の台湾には共産党思想の浸透を常に警戒する考えが溢れ、テレサ・テンの「いつの日君帰る」の中の「君」は共産党と解釈され、彼女は共産党が台湾に来ることを祈っていると疑いをかけられてしまいました。 半世紀にわたってこの歌は、再び政治闘争の渦に巻き込まれることになります。 再び輝く「いつの日君帰る」 1980年代末、中国大陸で周璇ブームが起こり、1995年のテレサ・テンの逝去によって引き起こされた追悼記念ブームなどの影響を受け、「いつの日君帰る」はようやく海峡両岸で解禁され、長年にわたり多くの人々に親しまれてきたこの恋の唄はようやく表舞台に戻ることになりました。 この歌は誕生以来、ずっと不遇な運命に翻弄されながらも、各時代の歌手は命の歌を歌い続けました。 そして今、美しいメロディーが再び流れるこの時代、歌を紡いできた周璇、李香蘭、テレサ・テンの歌手たちの心は安らぎに満ちていることでしょう。 番組の中でお送りした曲 1曲目 周璇「何日君再来(いつの日君帰る)」 2曲目 李香蘭「何日君再来(いつの日君帰る)」 3曲目 テレサ・テン「何日君再来(いつの日君帰る)」.

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