スペインによるアメリカ大陸の植民地化。 ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化

スペインのフィリピン征服・アジア初欧米の植民地へ

スペインによるアメリカ大陸の植民地化

スペインによるアメリカ大陸の植民地化(スペインによるアメリカたいりくのしょくみんちか)では、15世紀から17世紀におけるスペインによる新大陸の征服活動および植民地化活動について説明する。 目次 [非表示] 1 コロンブスの航海とカリブ海の征服 1. 1 コロンブスの航海 1. 2 大アンティル諸島 1. 3 ベネズエラ 1. 4 パナマ 2 メキシコと中央アメリカの征服 2. 1 アステカ文明 2. 2 タラスカ王国 2. 3 マヤ文明 3 北アメリカの征服 3. 1 ポンセ・デ・レオン遠征隊 3. 2 ナルバエス遠征隊 3. 3 デ・ソト遠征隊 3. 4 コロナド遠征隊 3. 5 アラルコン遠征隊 3. 6 ロドリゲス・カブリリョ遠征隊 4 南アメリカの征服 4. 1 ベネズエラ 4. 2 コロンビア 4. 3 インカ帝国 4. 4 マプーチェ人 4. 5 グアラニー人 5 後世に及ぼした影響 5. 1 植民地支配体制確立後の中南米社会の様相 5. 2 エンコミエンダ・コレヒドール・ミタと資本流出 5. 3 改宗 5. 4 黒い伝説 6 脚註 7 参考文献 8 関連項目 コロンブスの航海とカリブ海の征服[編集] 「レコンキスタ」、「新世界」、「トルデシリャス条約」、および「北西航路」も参照 「カリブ史」も参照 コロンブスの航海[編集] アメリカ大陸の「発見」者クリストーバル・コロン クリストーバル・コロンの四度の航海 「クリストファー・コロンブスの航海(英語版)」および「スペイン領西インド(スペイン語版、英語版)」も参照 レコンキスタが終焉し、スペインからイスラム勢力が消滅した1492年にクリストーバル・コロンがアメリカ大陸を「発見」して以降、スペイン人はカリブ海やその近辺の大陸に対する機会を生かそうと考えた。 1494年にローマ教皇アレクサンデル6世の仲裁によってスペインとポルトガルの間にトルデシリャス条約が結ばれ、スペインは「新大陸」における征服の優先権を認められた。 トルデシリャス条約では新たに征服される土地と住民はスペイン国王に属すこととされ、スペイン国王の代行者たるパシフィカドール(鎮定者)は、既に成立した条約に基づいて先住民を服従させるか鎮定する役割を担った。 このトルデシリャス条約のため、スペイン人が先住民に出会った際に、先住民に対しての選択肢は征服以外に存在しなくなり、このことがポルトガルやイギリス、フランスによるアメリカ大陸の征服とスペインのそれの特徴を大きく異なったものとした[1]。 トルデシリャス条約により、スペインによるアメリカ大陸制圧を担った者達はコンキスタドール(征服者)と呼ばれた。 また、コロンが到達した地に居住していた人々は、自らがインドに到達したと思ったコロンによってインディオ(インド人)と呼ばれたため、以降アメリカ大陸の人々はヨーロッパ人によってインディオやインディアンといった呼称で呼ばれるようになった。 【略】 北アメリカの征服[編集] 詳細は「先史時代の北米大陸」および「北アメリカ史」を参照 「イギリスによるアメリカ大陸の植民地化」および「テラ・ノヴァ」も参照 「フランスによるアメリカ大陸の植民地化」、「ヌーベルフランス」、および「アカディア」も参照 ポンセ・デ・レオン遠征隊[編集] 詳細は「スペイン領フロリダ」を参照 1513年にフアン・ポンセ・デ・レオンがフロリダ半島を探検したのを皮切りに、北アメリカの征服が始まった。 ナルバエス遠征隊[編集] ナルバエス遠征隊(スペイン語版、英語版) 詳細は「ナルバエス遠征隊(スペイン語版、英語版)」および「ミシシッピ文化」を参照 パンフィロ・デ・ナルバエスは1527年と1528年にフロリダとジョージアを通り、初めてテキサスへ入った。 悲惨な遠征によって次々と隊員が倒れ、最終的にメキシコ市まで帰還できたのはアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカら4名のみであった。 生還したカベサ・デ・バカは黄金の都シボラの話を恐らくは誇張して聞かせた。 デ・ソト遠征隊[編集] デ・ソト遠征隊 「アパラチー」、「カド」、および「カドのミシシッピ文化(英語版)」も参照 ナルバエス遠征隊の話に興味を示したエルナンド・デ・ソトは、1539年にフロリダに上陸、アパラチア山脈まで北上した後にミシシッピ川を渡り、西のオクラホマまで探険した。 コロナド遠征隊[編集] コロナド遠征隊 これとちょうど同じ頃の1540年、フランシスコ・バスケス・デ・コロナドは西から探険し、メキシコ市から北上してアリゾナへ入ってグランドキャニオンを「発見」し、カンザスに到達して1542年に帰着した。 アラルコン遠征隊[編集] フェルナンド・デ・アラルコン(スペイン語版、英語版)は、カリフォルニアとアリゾナを探検し、コロラド川に到達した。 ロドリゲス・カブリリョ遠征隊[編集] 「ラス・カリフォルニアス」も参照 フアン・ロドリゲス・カブリリョは、1540年に死んだフランシスコ・デ・ウリョア(スペイン語版、英語版)の後任に着任し、1542年にバハ・カリフォルニア半島の探検に派遣されてサンフランシスコ湾の北まで行った。 しかし、これらの北アメリカの探険の全てが、黄金を発見するという目的としては失敗に終わった。 詳細は「海賊の黄金時代」、「カリブ海の海賊 歴史 」、「トルトゥーガ島」、および「ウィンドワード海峡」を参照 詳細は「ジェームズタウン バージニア州 」、「バージニア植民地」、「プリマス植民地」、「13植民地」、および「アメリカ合衆国の植民地時代」を参照 「オランダによるアメリカ大陸の植民地化」および「ロシアによるアメリカ大陸の植民地化」も参照 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上転載ーーー 2020年• 08月• 09月• 10月• 11月• 12月 2019年• 2018年• 2017年• 2016年• 2015年• 2014年• 2013年• 2012年• 2011年• 2010年• 2009年• 2008年• 2007年• 2006年• 01月• 02月•

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植民地とは

スペインによるアメリカ大陸の植民地化

地域 ラテンアメリカは一般に「中南米」地域を言う。 中南米は「中米」は現在のメキシコ・中央アメリカ諸国・を含み、「南米」は南アメリカ大陸を意味する。 この地域をラテンアメリカというのは、1860年代にフランスのがメキシコを支配したときに、スペイン植民地(イスパノアメリカ)一帯を、スペイン・ポルトガル・フランスに共通するラテン性を強調してフランス語でラメリーク=ラティーヌと称し、その英語表記ラテンアメリカが日本で定着した。 つまり ラテンアメリカとはラテン系の文化を継承している地域という意味になる。 厳密にはこの地域には、カリブ海のなどはイギリス、スリナムはオランダという非ラテン諸国で独立した国々もあるが、地域名称としてはすべてラテンアメリカに含めている。 歴史 ラテンアメリカの歴史は、 「先コロンブス時代、植民地時代、独立国家の時代」に大別される。 1492年のの到達以後が「植民地時代」であり、1810年に始まる独立戦争を経て一斉に独立する1820年代以降が「独立国家の時代」といえる。 ただし、カリブ海諸国の独立は1960年代(キューバとパナマは20世紀初頭)までずれこむ。 先コロンブス時代 「先コロンブス時代」にはにはじまり、、に代表されるの文明が存在していた。 いずれも旧大陸とは直接的な関係をもたない、独自な文明と社会を形成した。 ラテンアメリカの植民地化 スペインの進出 1492年、スペイン王が派遣したコロンブス艦隊がに到達したことでこの世界が一変する。 スペインは西インド諸島を1510年代前半までで植民地化し、20年代に大陸に進出した。 1521年のによる征服に続いて、メキシコ以南の地峡地帯を征服、次いで30年代に南米大陸に進出し、1532年にによる征服が行われた。 スペインは南北アメリカ大陸植民地を、アステカ王国の跡地にヌエバ=エスパーニャ副王領、インカ帝国の跡地にはペルー副王領として支配した。 このは、1820年代の一斉独立までの約300年の間、続くことになる。 ポルトガルの進出 はので南米大陸のの東端を勢力圏として認められ、にが到達してから植民地化をすすめ、を設けて支配した。 黒人奴隷の流入 スペイン・ポルトガルいずれの植民地でも、始めはインディオ(インディアン)を奴隷として使役したが、かれらは過酷な労働と白人がもたらした感染症で人口が激減し、労働力不足が起こった。 それを補うものとして、17世紀中頃からアフリカから多数のがもたらされた。 その結果、植民地時代に本国生まれの白人(スペイン人はイベリア半島にあるので半島人のいう意味のペニンスラールと言われた)、新大陸生まれの白人()、白人と現地人との混血()、白人と黒人の混血()、黒人(自由人と奴隷がいた)、現地人()、という人種的な身分制が形成され、ラテンアメリカの歴史に深い蔭を落としている。 による植民地支配は、インディオ人口の急激な減少、アフリカからの大量の黒人奴隷の移入と言った過去に例のない変動を新大陸にもたらした。 原住民であるインディオはスペインの武力支配の下で、労働力として強制的に労働させられ、その不満は強まっていった。 1780年にはペルーにおいて、最初のインディオの反乱であるが起こっているが、この反乱はスペイン軍によって鎮圧された。 1791年、西部のフランス植民地サン=ドマングでの指導する黒人暴動が始まり、政権が成立すると、ハイチ独立を承認させることに成功し、には自由主義的憲法の制定まで進んだ。 これらのインディオや黒人の反乱に危機感を抱いたのが、支配層であった現地生まれの白人であるであった。 クリオーリョは本国政府に代わって直接的な支配を現地で確立するには、独立の道を選ぶしかないと考えるようになった。 彼らにとって参考になったのが、北アメリカ大陸における1776年のであった。 さらに、によって自由・平等の理念が実現したこと、の(1808年)によって、ラテンアメリカに独立の気運が高まった。 ヨーロッパ本国の動きは 約2ヶ月遅れでラテンアメリカの植民地にもたらされていた。 独立運動の開始 最初に独立を達成したのはフランス革命の直接的な影響によって起こった、黒人奴隷の解放闘争という性格も持っていた、の指導したであった。 1月1日に独立を達成したハイチは黒人による共和政国家であったが、それ以後のラテンアメリカで独立を達成していった諸国は、現地生まれの白人であるが主体となったものだった。 1808年ののの蜂起などが続き、1810年代から20年代にかけて中南米諸国が一斉に独立を達成していった。 サン=マルティンとシモン=ボリバル 1811年には南米大陸で最も早くが独立宣言、1814年にはが続いた。 その独立戦争を戦ったクリオーリョのは、大遠征を敢行、アンデスを越えて1818年に独立を達成した。 そのような中で、同じくクリオーリョ出身のの「」構想のようなラテンアメリカの統合の動きがあったことは注目されるが、結果的に地域対立を克服することができず、群小国家の分立という形になった。 また独立後も複雑な人種的身分制社会を抱え、産業の未発達もあって貧富の差が大きく、独裁権力が出現したりクーデタが相次ぐなどが政治的不安定が続いた。 キューバなどハイチ以外の諸国の独立は遅れ、20世紀にずれこむ。 あいつぐ独立 ラテンアメリカでの独立運動は、本国スペインで1820年から23年にかけて、が起こり、自由主義改革が一時的に成功したことを受けて、1820年代に最も高揚し、1821年にサン=マルティンがの独立を宣言した。 ペルー情勢はその後悪化してサン=マルティンは撤退したが、替わってシモン=ボリバルが1824年のペルー南部でのアヤクチョの戦いで残存するスペイン軍(王党派)に大勝したことが決定的となった。 では1821年に イトゥルビデが国王就任を宣言し立憲君主国として独立したが、民衆の反発を受けて追放され、24年に共和政となった。 この間、ポルトガル領のも1822年に独立を宣言した。 はアルゼンチンとブラジルの緩衝地帯であったので双方からの介入が続き、独立は遅れて1830年であった。 ウィーン体制の動揺 この動きに対して、下で復活したヨーロッパの絶対王政諸国はラテンアメリカ諸国の独立への介入を図ろうとした。 特に1823年にフランスを中心とする諸国がスペインに介入して立憲革命を弾圧し、ラテンアメリカにおけるスペイン植民地を復活させるため、軍隊をメキシコに出兵しようという計画が持ち上がると、アメリカ合衆国はを発表して、ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への干渉を批判し、相互の不干渉の原則を打ち出して牽制した。 また、イギリス外相は、自国製品の市場としてこの地域がスペインから独立することを期待して支援していたので、ヨーロッパ諸国の中で唯一アメリカ合衆国を支持し、ウィーン体制から距離を置くこととなった。 そのために、ウィーン体制とそれを支えていた(五国同盟)にひび割れが生じることとなった。 二つの要因とは、一つはブラジルにせよ、アメリカ合衆国にせよ、あるいはスペインの元植民地にせよ、言語はこれらの国々を本国から分化する要因ではなかったことである。 アメリカ合衆国も含め、すべての国家はクレオール国家であり、彼らが叛旗を翻した当の相手と言語、出自を共通にする人びとによって指導された。 もう一つは、少なくとも南アメリカと中央アメリカでは、まだヨーロッパ流の「中産階級」などとるにたらぬ存在だったことである。 「独立戦争のリーダーシップは、多数の大地主、そして彼らと同盟した少数の商人、さまざまの専門的職業者(プロフェッショナルズ、法律家・軍人・役人など)によって掌握されていた。 (クレオール=) 引用 ・・・ベネズエラ、メキシコ、ペルーなどの場合、マドリードからの独立に当初、拍車をかけた要因は、「下層階級」の政治的動員、すなわち、インディオあるいは黒人奴隷の反乱への恐怖であった。 (中略)ペルーでは、ーに指導された大農民一揆の記憶がなお新しかった。 1791年には、が黒人奴隷の反乱を指導し、この結果、1804年は、西半球における第二の独立共和国が誕生して、ベネズエラの大奴隷農園主を戦慄させた。 1789年、マドリードがより人道的な新奴隷法を発布し、主人と奴隷の権利義務関係を詳細に規定したときには、「クレオールは、奴隷が、悪徳と独立(!)に染まりやすく、経済的に不可分であるとの理由で、国家の介入を拒絶した。 ベネズエラでは(中略)農園主は法律に抵抗し、1794年にはこれを停止させた。 」解放者自身、かつて、黒人の反乱は「スペインの侵略より一千倍も始末が悪い」と語ったことがある。 ・・・当時すでにヨーロッパ二流の国家であり、しかもつい先頃までナポレオンに征服されていたスペインに対する大陸的闘争がかくも長期化したこと、これは、ラテン・アメリカのこれら独立運動の「社会的な層の薄さ」を物語っている。 <ベネディクト=アンダーソン/白石隆・さや訳『定本想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』2006 書籍工房早山 p. 93-94> また、なぜ、ほとんど3世紀にわたって平穏に存続してきたスペイン・アメリカ帝国が、これほど突然に18の別々の国家に分裂したのかという問を立て、ラテンアメリカ諸国が、共通のスペイン語という言語を使用しているにもかかわらず、一つの国家として独立しなかった理由は、これらの新生共和国が16~18世紀の行政上の単位であった事をその理由として上げている。 その点でこれらの諸国は19世紀後半から20世紀初めに誕生したヨーロッパの新興国家とははっきりとした対照をなしており、その点で南アメリカの共和国は20世紀なかばにアフリカ及びアジアの一部に成立する新興国家のさきがけであった、と指摘している。 <同書 p. 95,97> アメリカ帝国主義とラテンアメリカ アメリカ合衆国は1823年の以来、南北アメリカ大陸全体に対するヨーロッパ諸国の干渉を排除し、アメリカの勢力圏とする姿勢を持ってきたが、19世紀後半になると、の急速な展開がラテンアメリ赤でも見られるようになった。 1889年の第1回、98年のを通じてその姿勢は強められ、を支援しながらキューバに対してを認めさせて事実上保護国とした。 この時キューバに設けられたアメリカのは今もその支配下にある。 カリブ海政策 さらに大統領のが有名である。 その政策は、ともいわれた武力を背景とした強引な外交手法により、アメリカの国益を拡大するものであり、1903年にに介入してを独立させ、パナマとの間に有利な条約を締結しての権利と運河地帯の支配権を獲得したことに典型的に見られる。 宣教師外交 第一次世界大戦直前のの大統領は、露骨な経済的進出が国際的な非難を浴びたことから、対ラテンアメリカ外交をといわれる穏健な手法に転換させたが、それは民主主義の理念を押しつけるためには武力介入をも辞さないというものであり、その姿勢はへの干渉にも現れている。 この干渉に失敗したアメリカ外交は、次第にラテンアメリカに対する力を弱めていった。 善隣外交 第一次世界大戦後の1933年以降は、大統領の「」が展開された。 それは世界恐慌期にアメリカ資本の投下先、原料供給地、市場としてラテンアメリカ地域を囲い込んでおくという政策といえる。 それを表明したのが1933年、ウルグアイのモンテヴィデオで開催された第7回パン=アメリカ会議においてであり、その現れが34年のキューバの完全独立承認(の廃止)であった。 第二次世界大戦前後のアメリカとラテンアメリカ 第二次世界大戦の前後の時期に、ラテンアメリカの各国にアメリカと結んだ軍事政権が誕生した。 キューバの、ニカラグアのなどがそれにあたる。 また市民層が成長した地域では民族主義と経済発展を掲げて国民の人気を集め、独裁的な政治を執ると言われる形態が出現した。 メキシコの政権、ブラジルのヴァルガズ政権、アルゼンチンの政権がそれにあたる。 期にはアメリカは共産主義勢力がラテンアメリカ地域に浸透することを警戒し、経済協力と集団安全保障体制を強めるとともに反米、反政府運動には軍隊を派遣して鎮圧に当たった。 これらの戦後アメリカのパン=アメリカ主義の路線によって、1947年にリオデジャネイロで締結されたが成立、48年にはを発足させた。 1947年には反米活動を妨害する大統領直属の諜報機関としてを設置し、1954年にはでアメリカ資本のユナイテッド=フルーツ社を接収した政権をその謀略によって倒している。 キューバ革命とキューバ危機 1959年ので親米バティスタ政権が倒され、政権が急速に社会主義に傾くと、アメリカのケネディ政権は大きな危機感を抱いて、キューバ以外の諸国とを結成して、キューバ包囲網を強めた。 1962年のでは米ソの衝突を回避したが、社会主義国キューバはアメリカののど仏に位置して存続し、現在まで対立関係は改善されていない。 カストロの指導したキューバ革命が成功し、社会主義を標榜した国づくりを開始すると、その影響がラテンアメリカ各地におよんだ。 カストロの協力者ゲバラも、世界同時革命を目指して南米各地を転戦した。 しかし、アメリカ合衆国の軍事支援と、アメリカ多国籍企業の経済支援を受けた軍事独裁政権は各国の革命運動弾圧し、社会主義のキューバ以外への拡張を押さえ込んだ。 軍事独裁政権 1970年代のラテンアメリカ諸国には、相次いで軍事政権の登場し、軍政下に置かれるようになった。 軍事政権は強権で議会政治と民主主義を押さえつけ、反対派に対する非人道的な措置を行い、国際的非難が起こる場合もあた。 1973年、アメリカの支援でアジェンデ政権を倒したの政権などにその典型例が見られる。 また1976年に始まるの軍事政権は反対派に対する徹底的な弾圧を加え、同じく75年にはでも軍事政権が成立している。 コンドル作戦 1975年頃に中南米諸国に一斉に現れた軍事政権は、それぞれの国内での反政府活動、左派や自由主義者の活動、労働運動・学生運動などを弾圧するために共同歩調を取っていた。 それを主導したのはチリのピノチェト将軍であり、「祖国を共産主義の脅威から防衛する」という目的を掲げて互いに情報を提供し、クーデターの手段を共有した。 チリ軍部はその作戦を、アンデスを越えて飛んでいく大鳥になぞらえ、「コンドル作戦」となつけた。 また、スパイの手法や拷問のやり方はアメリカのCIAが設立した「米軍アメリカ学校」(パナマ運河が返還まではパナマに置かれ、それ以後はアメリカ国内に移った)に中南米各地から派遣された軍人に教えられていた。 <伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 p. 126、p. 145> 具体的にコンドル作戦に参加した軍事独裁政権は、チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ブラジルと言われているが、その実態には判らないこともいい。 アメリカの軍事介入 アメリカはラテンアメリカ地域にたびたび直接的な介入し、親米的な軍事政権を支援している。 1973年のチリの政権を崩壊させた、1979年のへの介入、1981年からのへの干渉、1983年のなどである。 これらは共和党政権下で行われたが、民主党のカーター政権は、77年にで運河地帯の主権をパナマに返還することを約束した。 共和党ブッシュ政権は89年にを行い、アメリカにとって都合の悪い政権を排除し、中南米への影響力を維持しようとしたが、冷戦の終結後は直接的介入の大義が無くなり、パナマ運河返還も約束通り1999年に実現させた。 現在のラテンアメリカ ラテンアメリカ地域はほぼ独立し、現在は33ヵ国を数える。 南米ではフランス領 ギアナ、カリブ海ではアメリカ領 プエルトリコ、フランス領 マルティニーク島などが独立していない。 33の独立国のうち、スペインを旧宗主国とするのは18ヵ国で、中南米のほとんどを占め、これらではスペイン語が公用語とされている。 カリブ海域を中心としたイギリスを旧宗主国とする国が12ヵ国で、これらでは英語が公用語とされている。 他にハイチがフランス語、ブラジルがポルトガル語、スリナムがオランダ語という、それぞれ旧宗主国の言語を公用語としている。 ただしカリブ海域で使われている英語・フランス語は本来のものからかなり変形し、 クレオール語と言われている。 <国本伊代『概説ラテンアメリカ史』2001 新評論> 軍政の失敗と民政移管 チリのに典型的に見られるように、軍事独裁政権は財政危機を経済によって乗り切ろうと、いずれも緊縮財政、規制緩和、外資導入などを行ったが、それは貧富の差が拡大をもたらし、ラテンアメリカ各地で貧困層が増加した。 さらにアルゼンチンでは軍政政府が国民の不満を戦争に転化しようとしてナショナリズムに訴え、イギリスとの間で1982年にを起こしたが敗北し、それが契機となって軍政反対の声が強まった。 民政移行のうねり その結果、次第に軍事独裁政権による人権抑圧と、構造的な貧困に対する対する大衆的な不満が強まり、1980年代にはいると、など、民政移管が広がった。 南米南部共同市場の形成 またラテンアメリカ諸国の経済的自立を目指して、アメリカを排除した経済共同体形成の動きが具体化していった。 1988年にとで結成した(メルコスル)は、91年にパラグアイとが加盟し、その他の中南米諸国も準加盟国となって、域内の関税撤廃、対外共通関税の取り決めなどを行った。 反グローバリズム 中南米の民衆が強く反発したのは、新自由主義と共にグローバリズムの進行という事態であった。 アメリカは1990年にブッシュ(父)大統領が「北はアラスカから南はフエゴ島まで」として、米州全域の経済ブロック構想を提唱していたが、クリントン大統領となってからの1994年1月1日にアメリカ・カナダにメキシコを加えた(NAFTA)が発足した。 これによってメキシコがアメリカ経済に従属し、農業が破壊されると警戒した農民は強く反対していたが、協定発足のその日に、メキシコ南部のチアパス州で「サパティスタ民族解放戦線」を名乗る武装グループが蜂起し、メキシコ南部からグァテマラとの国境地帯に解放区をつくり、しばらくの間、抵抗を続けた。 1990年代、では日系のフジモリ大統領が登場した。 強権的な手法で経済の立て直しを図ったが、1996~7年には左派民族主義ゲリラのトゥパク=アマル革命運動による日本大使館占拠事件が起こった。 それを押さえ込んだあとは治安の維持につとめ、一時は国民的人気も高かったが、2000年の大統領選挙では不正を暴露され、急激に人気が急落、裁判で有罪となった。 経済危機とIMF 2000年には深刻なが始まった。 政府は(IMF)の融資を受ける条件として、極端な緊縮財政策を実施、01年には激しいストライキが起き、さらに02年にも暴動となって国政はマヒ状態に陥った。 ドゥアルテ大統領は巨額の対外債務の不払いを宣言、いわゆるデフォルト(債務不履行)に陥った。 これらは、中南米諸国に共通する、強権的な独裁権力が、権力維持のために軍事支出を増大させ、その穴埋めに外国から借金し、そのために起こった財政危機をIMFの融資で切り抜けようとしたために起こったものであった。 IMFは融資の条件として、厳しい緊縮財政、社会保障の切り捨て、規制緩和などのをいわゆる新自由主義的な「小さな政府」への転換を要求した。 IMFに従属した政権は、自己の負債を国民生活を犠牲にして解消しようとした。 2000年代にそれに対する民衆的な怒りが、中南米各国で顕著になっていく。 2006年、「反米大陸」の誕生 1998年に「貧困の救済」を掲げての大統領となったは、明確にアメリカの介入と新自由主義に反発する姿勢を採った。 その影響は、2000年代の初めに急速に中南米に広がった。 2002年にはに左派労働党のルーラ大統領が当選、農地改革を開始した。 では2003年に左派のキルチネル政権が誕生、前政権が2001年末の経済危機に際してIMF融資条件を満たすために緊縮財政、銀行預金の引き出し制限などを強行したことによって混乱に陥っていた経済の立て直しに取り組みを開始した。 2005年にはで最初の左派政権バスケス大統領が登場し、2006年にはで社会主義運動党のモラレスが大統領に就任(初めての先住民出身)して反米を明確にし、その一週間後にはの大統領選挙で与党の統一候補、社会党のバチュレが当選した。 チリ史上最初の女性大統領であり、1973年の軍部クーデターで逮捕投獄された経験を持つ。 さらにでは中道左派のガルシア大統領に返り咲いた。 でも反米左派のコレアが、「バナナ王」と言われた右派の大富豪を破って大統領に当選した。 また同年、では80年代に左翼革命政権を担っていたオルテガが16年ぶりに政権を奪回した。 一連の動きの総仕上げとして、ベネズエラでチャベス大統領が再選された。 このように2006年には中南米地域に一斉に反米勢力が登場して「反米大陸」となっている。 明確に親米政権が残っているのは、コロンビアのウリベ大統領のみという状況である。 <伊藤千尋『反米大陸』2007 集英社新書 などによる>.

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スペインによるアメリカ大陸の植民地化

スペインによるアメリカ大陸の植民地化

アメリカ合衆国の植民地時代(アメリカがっしゅうこくのしょくみんちじだい、: Colonial history of the United States)は、から始まり、ヨーロッパからの独立のときまでの歴史であり、特ににしたの歴史である。 後半から、、、、およびが大陸東部の植民地化を始めた。 初期の多くの植民の試み、特にイギリスによるは失敗に終わったが、幾つかの植民地が設立された。 ヨーロッパ人開拓者達は様々な社会と宗教の集団から出てきた者達だった。 恒久的に定着した貴族階級はいなかったが、多くの冒険家、軍人、農夫および貿易業者が到着した。 その中でもの、のと、のイギリス系教徒、のイギリス系、のイギリス系開拓者およびの「清貧な」人々、それぞれの集団が新大陸に来て植民地を建設し、社会、宗教、政治および経済の様式に特徴あるものをもたらした。 歴史家達は通常、後にアメリカ合衆国東部となった土地に4つのはっきりした地域を認めている。 北から南にニューイングランド、大西洋岸中部、植民地()およびである。 歴史家の中には5番目の地域としてを加える者がいるが、これは別に組織化されたものではなかった。 後のに土地を与えたその他の植民地としては、、()、および領があった。 植民地化の目的 植民者達は高度に発達した陸軍、海軍、政府および企業家的な可能性を備えたヨーロッパの国々から来た。 やはの数世紀にわたる征服と植民地化の経験があり、新しい海洋航行可能な船舶の操船術と組み合わされてを植民地化する道具と能力および願望を持っていた。 イングランド、フランスおよびオランダはと北アメリカ大陸の双方で植民地化を始めた。 これらの国は海洋航行可能な船舶の造船術を持っていたが、スペインのように植民地化の強力な歴史は持っていなかった。 しかし、イングランドのは初期資本主義()を通じてアメリカ大陸の植民地に政府の統制をあまり必要としない商業に基づく投資の性格を与えた。 初期植民地の失敗 (ニュースコットランド)は1629年に入植されたが1631年にフランスのために放棄された。 スペインは現在のアメリカ合衆国の領域に幾つかの植民地を造った。 しかしこれらの幾つかは失敗した。 1526年、ルーカス・バスケス・デ・アイロンが現在のあるいはの地にサンミゲル・デ・グアダルーペ植民地を造った。 この植民地は短期間存在しただけで直ぐに崩壊した。 この植民地は現在のアメリカ合衆国領土の中で奴隷の労働力を使った最初の例としても有名である。 にスペインの、がに植民地を造る試みを始めた。 ナルバエス遠征隊はわずか4人が生き残って1536年ににたどり着くという大惨事におわった。 1559年にに造ったスペインの植民地は1561年ので破壊された。 の内陸部に1567年に建設されたサンフアン砦は、18ヶ月後に土地のに破壊された。 1570年に設立され翌年には失敗したアハカン伝道所は、後のイングランドのジェームズタウン植民地に大変近い所であり、そこは後にバージニアと呼ばれるようになった。 フランスも幾つかの植民地を造ったが、天候、病気あるいはヨーロッパ列強との抗争によって失敗した。 1562年にフランス軍の小さな部隊がサウスカロライナのパリス島に残されてシャルルフォールを造ったが、フランスからの補給が無かったために一年後には放棄された。 1564年に現在のフロリダ州にカロリーヌ砦が建設されたが、1年後にから来たスペイン人に破壊された。 1604年、現在のセントクロワ島に短命のフランス植民地ができたが、病気、おそらくはに悩まされたために潰れた。 スペインの植民地 フロリダ 詳細は「」を参照 はフロリダに多くの小さな開拓地を造った。 最も重要なものは1565年に設立されたサン・アグスタン(現在のセントオーガスティン)だったが、何度も攻撃を受け焼かれた。 小さな拠点は勿論、サン・アグスタンですら、海賊の攻撃は容赦しないものがあった。 1702年と1704年に行われたサウスカロライナからの大規模遠征によって、実質的にスペインの伝道所群が破壊された。 サン・アグスタンは生き残ったが、ヤマシー族などイギリス人と同盟したインディアンがフロリダ中で奴隷狩りを行い、この地域にいたインディアンの大半を殺すか奴隷化した。 1700年代半ば、ジョージアから侵入した族インディンが残っていた土地のインディアン大半を殺した。 イギリスがこの地域を支配した1763年には、スペイン人約3,000人が住んでいたが、そのほとんど全てが早々に退去した。 1783年にスペインの支配に復したが、スペインは新たな開拓者や宣教師をフロリダに送ろうとはしなかった。 アメリカ合衆国が1819年にスペインからフロリダの割譲を受けた。 ニューメキシコ(1598年-1821年) 詳細は「」を参照 16世紀を通じてスペインはメキシコから現在のを探検した。 その中でも最も著名な探検家はであり、その遠征隊は現在の、、南部、のパンハンドル地域および全体を旅した。 しかし、コロナドは新しい開拓地を造らなかった。 最初の植民地は1598年ににより、現在のニューメキシコ州エスパノーラに近いサンフアン・デ・ロス・カバレロスに造られたものであり、その後1609年頃のが続いた。 2番目の植民地はの後の1692年、によるものだった。 ニューメキシコの王国内は幾つかの外国(テキサス、フランス、アメリカ合衆国)による領有権主張があったが、スペイン(223年間)およびメキシコ(25年間)による支配が続けられた。 の1846年にアメリカ合衆国が指揮する西部軍がここを制圧した。 当初スペイン、後にはメキシコに土地所有を認められた植民者の多くの直系子孫が今日でもこの地域に住んでいる。 カリフォルニア(1769年-1821) スペインによるサンフアン・カピストラーノ伝道所の遺跡、カリフォルニア州 16世紀初期から18世紀半ばにかけてスペインの探検家がカリフォルニアの海岸を航行したが、当時は開拓地が造られなかった。 スペインは1769年から宣教師や軍隊を送り始め、カリフォルニアの南部や中部の海岸に沿って一連のカトリック教伝道所を建設し、これに砦、町および牧場が併設された。 宣教師牧師が1769年のサンディエゴ・デ・アルカラから初めて伝道所の繋がりを建設した。 カリフォルニアの伝道所群は21箇所の拠点から構成され、インディアンにキリスト教を広める他に、その地域に対するスペインの領有権を確実にする利点があった。 この伝道所はヨーロッパの技術、家畜や農作物を伝え、地域先住民を労働者として使っていた。 伝道所はからの直ぐ北にあるソノマの海岸に沿って、それぞれが馬で約一日の距離に配され、スペインの法律の下に「プレシディオ」すなわち砦と「」すなわち町で補われた。 全てが海岸線近くに配されたので、伝道所、プレシディオおよびプエブロの間の一本の道は「エル・カミノ・レアル」(王道)と呼ばれるようになり、これが今日のカリフォルニア州最初の公道となった。 1820年までにスペインの影響力はサンディエゴからソノマまでの伝道所の並びに及び、内陸にはおよそ25ないし50マイル(40ないし80 km)まで及んだ。 この地帯の外にはおよそ20万人から25万人のインディアンが昔からの生活様式を続けていた。 スペイン政府(1821年にメキシコが独立した後はメキシコ政府)が大規模な土地特許を認めて定住を奨励し、それが牛や羊の牧場に変わった。 1840年代には系住人の人口は約1万人だった。 「エル・カミノ・レアル」と伝道所は後に牧歌的で平和な過去を偲ばせる象徴になった。 伝道所復古調建築様式はカリフォルニアの過去の理想化された見解から想を得た建築運動だった。 ニューネーデルラント 詳細は「」を参照 「ニュースウェーデン」 : Nya Sverige は1638年から1655年まで流域のスウェーデン植民地だった。 現在のにあったクリスティーナ砦を中心に、現在のデラウェア州、およびの一部を含んでいた。 ピーター・ミヌイットが新しく作られたニュースウェーデン植民地の初代知事になった。 ヨハン・ビョルンソン・プリンツ知事(在任1643年-1653年)の下で植民地は拡大し、デラウェア川の東岸、今日のニュージャージー州セイラム近くにニュー・エルフスベリ砦を、ティニカム島(今日のフィラデルフィア市の直ぐ南西)にニュー・ゴーテンベリ砦を建設した。 オランダの総督が1655年夏遅くに軍隊を動かしてデラウェア川に向かい、即座にトリニティ砦とクリスティーナ砦を占領した。 ニュースウェーデンは1655年9月にオランダ領ニューネーデルラントに組み入れられた。 入植地自体は、その後もある程度の地方自治を続け、1664年10月にイングランドがニューネーデルラント植民地を征服するまで続き、1682年にこの地域がによるに含まれるまでは非公式に継続された。 ヌーベルフランス 1750年の各国の領有図、イギリス(ピンク)、フランス(青)およびスペイン(橙色)、現在のカナダとアメリカ合衆国国境も示す。 ヌーベルフランスは1534年にがを探検したことからフランスが植民地化した地域だった。 1712年が最頂時期でありノバスコシアからまでとハドソン湾からさらにはまで伸びた。 その領土はその後5つの植民地に分けられ、それぞれの政府ができた。 すなわちカナダ、、、ニューファンドランドおよびだった。 フランスから約16,000人が到来し、セントローレンス川やアカディアの集落に集まった。 他の場所にはほとんど開拓者がいなかった。 イギリスは1763年までに戦争の代償としてミシシッピ川より東のほとんど全ての領土を奪った。 周辺の地域およびミシシッピ川の領域はスペインに渡され、1803年にはフランスに戻っていた���、の結果としてアメリカ合衆国に売却された。 ロシアの植民地 ロシアとアラスカの間の諸島およびベーリング海両岸の海岸部には、、ユピク族、族などが住んでいた。 ロシアのはその帝国の東部の探検を決断した(アジアとアメリカの間にがあるかどうかを見極めたいと考えた)。 1730年代と1740年代初期に第二次カムチャッカ遠征隊が派遣された。 最初のロシアの植民地であるアラスカは1784年にによって設立された。 1799年にの力でが設立され、を狩りその毛皮を求めた。 その後ロシアの探検家や開拓者がアラスカ、、現在の、、にまで交易基地の建設を続けた。 現在のカリフォルニア州にあったロス砦がロシアの最南端の植民地だったが1841年に放棄された。 1867年、アメリカ合衆国がした。 アラスカのハーマンなどロシアの宣教師が先住民の中にを設立した。 ロシア正教会とアラスカの先住民は今でも密接な関係を続けている。 イギリスの植民地 1606年にがとの会社に与えた勅許。 重複している地域(黄色)は双方の会社に100マイル 160 km 以上近付かないようにという条件で両社に与えられた。 "J"のマークはジェームズタウンの位置を示す。 イングランドは幾つかの理由で17世紀の初めに最初の植民地化を始めた。 この時代、スペインによる侵略の怖れがある中で、プロテスタントのある程度の軍事力と女王の活力に援けられて、イギリスの第一の国家主義と国民的主張が花開いた。 しかし当時、イギリスの政府によって植民地帝国を創設する公式の試みはなされなかった。 むしろ植民地を建設する背後にある動機はばらばらで変化するものだった。 商業的起業、過剰人口および宗教的自由の望みといった実際的な話がその動機の一部になった。 開拓の大きな波は17世紀に訪れた。 1700年以降、植民地アメリカに到着する大半の移民はとしてだった。 1610年代後半からアメリカ独立の間で、イギリスはそのアメリカ植民地に推計5万人の受刑者を運んだ。 最初の受刑者が到着したのは が到着する直前のことだった。 チェサピーク湾地域 詳細は「」、「」、および「」を参照 バージニア 最初に成功したイングランドの植民地はに近い小さな川沿いに1607年に設立されただった。 この事業は金の探求を行う持ち株会社ロンドン・が資金を提供し、取りまとめた。 開拓の初年は極めて難しい状況であり、病気、飢えおよび地元のインディアンとの戦争で高い死亡率となり、金も見つからなかった。 この植民地はを換金作物とすることで生き残り繁栄した。 17世紀終わりまでにバージニアの輸出経済は大半がタバコに基づいており、新しく到着した金持ちの開拓者が広大な土地を所有して大きなを造り、年季奉公者や奴隷を輸入した。 1676年、が起こったがイギリスから派遣されていた役人に鎮圧された。 ベイコンの反乱後、バージニアにおける労働力として、年季奉公者に代わって急速にアフリカ人の奴隷が増加した。 植民地の議会は王室に指名された総督と権力を分け合っていた。 地方に行けば政府の権力が自己永続性の郡政治を牛耳っていた(現職の者が役人の空席を埋め、人民による選挙はなかった)。 換金作物の生産者であるチェサピークのプランテーションはイングランドとの貿易に大きく依存していた。 川を使って容易に航行できたので、町や都市の数は少なかった。 農園主は直接イギリスに向けて出荷できた。 植民地の初期は高い死亡率と大変若い人口構成が特徴だった。 ニューイングランド 詳細は「」を参照 ピルグリム・ファーザーズはイングランドとオランダを本拠にするプロテスタントの小さな宗派だった。 1つの集団が メイフラワー号で出港しマサチューセッツに入植した。 この集団は自治権を広範に持つことになるを結んだ後で、1620年に小さなプリマス植民地を建設した。 プリマス植民地は後にマサチューセッツ湾植民地に吸収された。 ウィリアム・ブラッドフォードがその主たる指導者だった。 コネチカット植民地はコネチカット州になったイギリス人植民地である。 当初川の植民地と呼ばれたこの植民地はピューリタンの天国として1636年3月3日に組織化された。 はが族酋長カノニカスから得た土地に1636年に設立された。 ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地での宗教的迫害から逃げてきており、「公的な事項」では多数決の原理を与え、「信教の自由』を保証する平等主義的憲法について仲間の開拓者達と合意を取り付けた。 ピューリタン 詳細は「」を参照 1629年、ピルグリム・ファーザーズよりかなり大きな400人の開拓者集団であるピューリタンがマサチューセッツ湾植民地を設立した。 彼らは新世界で新しく純粋な教会を創設することでを改革しようとした。 1640年までに2万人が到着した。 多くの者は到着後間もなく死んだが、他の者は健康的な気候を見出し、豊富な食糧を供給できるようになった。 ピューリタンは深遠な宗教、社会的に緊密な結びつきおよび政治的に革新的な文化を創り出し、これが現在のアメリカ合衆国にも生きている。 彼らはこの新しい土地が「改革者の国」として機能することを期待した。 彼らはイギリスから逃げてきており、アメリカで「聖者の国」すなわち「丘の上の町」を造ろうとした。 厳格な宗教と完全に公正な社会がヨーロッパ全てにとって規範であろうとした。 宗教的寛容さ、を説いたロジャー・ウィリアムズはイングランド国教会と完全に袂を分かち、マサチューセッツ湾植民地から追放されてロードアイランド植民地を設立した。 そこはなどピューリタン社会から逃げてきた他の者達にとって天国になった。 経済的にピューリタンのニューイングランドはその設立者の期待を満足させた。 チェサピーク地域の換金作物志向プランテーション経済とは異なり、ピューリタンの経済は自給自足農業を広めることに基づき、自分達で生産できない商品のみを輸入した。 ニューイングランドではチェサピーク地域よりも概して高い経済的基盤と生活水準が得られた。 農業、漁業および製材業と共に、重要な商業と造船業の中心となり、南部植民地とヨーロッパの間の貿易では中継点として機能した。 大西洋岸中部植民地 大西洋岸中部植民地とは現在のニューヨーク州、ニュージャージー州、ペンシルベニア州およびデラウェア州で構成され、宗教、政治、経済および民族においてかなりの多様化で特徴付けられた。 オランダのニューネーデルラント植民地がイギリスに奪われてニューヨークと改名されたが、かなり多くのオランダ人が植民地内に留まった。 多くのや移民がこれらの地域とコネチカットに入植した。 ペンシルベニアに来た開拓者はかなりの比率でドイツ人だった。 ローワー・サウス 南部植民地にはチェサピーク地域のプランテーション型植民地(バージニア、メリーランドおよび場合によってデラウェア)とローワー・サウス(カロライナが分かれたノースカロライナとサウスカロライナ、およびジョージア)が含まれる。 カロライナ 詳細は「」、「」、および「」を参照 バージニアより南でイングランドが最初に開拓を試みたのがカロライナ植民地だった。 これは民間事業であり、1663年にカロライナの王室勅許を得たイングランドの植民地領主(Lords Proprietors)8人によって資金が出され、南部の新しい植民地もジェームズタウンのように利益が出せることを期待していた。 最初に入植の試みが行われたのが1670年になってからであり、この時は南部に移民することに何の特典も無かったので失敗した。 しかし領主達が残っていた資本を掻き集めてジョン・ウェストが率いるこの地域への入植隊の費用を出した。 この集団は後に(当初はに因んでチャールズタウンと呼ばれた)となる所に肥沃で防御にも適した土地を見つけた。 サウスカロライナの当初の開拓者達はの諸島と食糧、鹿の毛皮およびインディアンの奴隷という収益の上がる貿易品を見出した。 それらは主にイギリスの植民地であるからもたらされ、さらにはアフリカ人奴隷も連れてきた。 のプランテーションで富める島だったバルバドスは、プランテーション農業に大勢のアフリカ人を使った初期イングランド植民地の一つだった。 の米作地帯から輸入したアフリカ人を通じて1690年代にの栽培が始まった。 この初期植民地時代は、ノースカロライナはまだ辺境のままだった。 まずサウスカロライナが政治的に分離された。 その民族構成には当初の開拓者、バルバドス島から来た奴隷を所有し富めるイングランド人開拓者の集団、フランス語を話すプロテスタントであるが含まれていた。 やなどほとんど間断の無い戦争状態のために商人と農園主の間に経済と政治の面で亀裂を生じさせた。 による惨事のために1715年には政治的動揺の10年間が始まった。 1729年までに領主政府は崩壊し、領主達はイギリス王室に植民地を買い戻させた。 ジョージア 詳細は「」を参照 18世紀イギリスの国会議員が2つの問題に関する共通の解決策としてジョージア植民地を設立した。 当時スペインとイギリスは極度の緊張関係にあり、イギリスはからイギリスの植民地を侵されることを恐れていた。 オグルソープは両国が競合していた地域に植民地を建設し、イギリスの標準的習慣では投獄されているような負債者を集めて入植させることにした。 この計画はイギリスから望ましくない要素を取り去り、フロリダ攻撃のための基地を備えさせるというメリットがあった。 1733年に最初の植民者が到着した。 ジョージア植民地は厳格な道徳規範の上に設立された。 奴隷制は禁じられ、など不道徳と考えられるものも禁じられた。 しかし、植民地の現実は理想とは程遠いものだった。 植民地人はピューリタン的生活様式に不満であり、この植民地はカロライナの米プランテーションと経済的に競合できないと不平をこぼした。 ジョージアは当初は繁栄しなかったが、最終的に規則が和らげられて奴隷制も許可され、カロライナと同じくらい繁栄するようになった。 ジョージア植民地は特定の宗教を指定したことは無かった。 様々な信仰を持った人の集まりとなった。 東フロリダと西フロリダ 詳細は「」および「」を参照 1763年、イギリスはスペインからとの割譲を受けた。 両フロリダはアメリカ独立戦争の間もイギリスに忠実なままだった。 1783年にと引き換えにスペインに返還され、イギリス人の大半がそこを離れた。 スペインは当時フロリダを無視しており、1819年にアメリカ合衆国がこの地域を購入した時はスペイン人がほとんど住んでいなかった。 1776年におけるイギリスの統治体制 1776年時点でイギリスの植民地統治体制には直轄、領主領および特許の3形態があった。 イギリスのの下でこれらは全てに従属するものであり、とは明確な関係が無かった。 直轄植民地 ニューハンプシャー、ニューヨーク、ノースカロライナ、サウスカロライナおよびジョージアの各植民地が直轄植民地だった。 直轄植民地政府は君主の好みで創設された役人に治められた。 知事と議会(council)議員が指名されて一般的な執行権を行使し、両院制の議会を招集する権限を与えられた(議会が上院であり、集会(assembly)が下院だった)。 この集会には植民地内の自由土地所有者と農園主から議員を選んだ。 知事は絶対的な拒否権があり、集会を休会にしたり解散する権限があった。 集会は地域の法律や条令全てを作ることができたが、それらはイングランドの法と一致していなければならなかった。 領主領植民地 ペンシルベニア、デラウェア、ニュージャージーおよびメリーランドの各植民地が領主領植民地だった。 領主領植民地政府は君主から1人以上の人物に対して特定の領土の特許を認められたものであり、その土地の領主として封建制あるいは王室に従属した一般的な統治権を与えられ、君主の支配に従うものだった。 領主は知事や議会議員を指名し、その意のままに組織したり招集することができた。 行政権は領主あるいは知事にあった。 特許植民地 マサチューセッツ、ロードアイランド、およびコネチカットの各植民地が特許植民地だった。 特許植民地政府は特許状で創設された政治的法人であり、受権者が土地を支配し立法権を持った。 特許植民地には基本的憲法があり、立法府、行政府および司法府に権限が分けられていた。 イギリスによる管理の統一 共通の防衛 植民地人がイギリスの臣民であるというアイデンティティを共有することを思い出させた事件は、ヨーロッパにおける(1740年-1748年)だった。 この紛争は植民地にも及び、と呼ばれた。 大きな戦闘はヨーロッパで起こったが、アメリカ人が管轄した部隊がニューヨーク植民地やニューイングランドでフランス軍およびその同盟インディアンと戦った。 1754年のオールバニ会議では、が各植民地は防衛、拡張およびインディン問題で共通の政策を守る為に国民大会議で統一すべきという提案を行った。 この案は各植民地議会およびに拒絶されたが、北アメリカのイギリス植民地が統一に向けて動き出す前触れとなった。 フレンチ・インディアン戦争 詳細は「」を参照 (1754年-1763年)はと呼ばれたヨーロッパ全体の紛争をアメリカに拡大したものだった。 北アメリカにおけるそれ以前の植民地戦争はヨーロッパで始まり、それが植民地に広がったものだったが、フレンチ・インディアン戦争の場合は北アメリカで始まり、その後にヨーロッパに広まったことで特徴的だった。 イギリスとフランスの間の競合は特に五大湖や渓谷で拡大し、それが戦争の主要原因の一つになった。 フレンチ・インディアン戦争はイギリスの首相が如何なる犠牲を払ってでもフランスに勝たなければならないと決心した時に、北アメリカのイギリス植民地人にとって重大なものとなった。 初めて北アメリカが「世界戦争」と呼ばれるものの主要戦場になった。 この戦争中、イギリス植民地(後にアメリカ合衆国の基盤になった13植民地を含む)のイギリス帝国における位置付けが実際に明白なものとなり、イギリスの軍隊と文民の指導者の存在がアメリカ人の生活の中で大きなものになった。 この戦争はまた別の面でアメリカの統一という感覚を育てた。 兵士達は通常自国から外には出なかったが、それが大陸を移動し、はっきりと異なるがやはり「アメリカ人」という背景を持つ者達と共に戦った。 戦争の進展の中で、イギリス軍士官がアメリカ人を訓練した(最も著名なのが)。 これはアメリカ独立戦争のときには有益だった。 また、各植民地議会と役人は大陸全体にわたる軍事行動を行うために、初めて広範な共同行動をとる必要があった。 フレンチ・インディアン戦争の後の領土変化、1763年以前にイギリスが所有していた領土は赤、それ以後に得た領土はピンクで示す。 ので、フランスはその広大な北アメリカ帝国をイギリスに割譲した。 戦前にイギリスが持っていたのは13植民地とノバスコシアの大半、およびハドソン湾地域の大半だった。 戦後はミシシッピ川より東のフランス領全て、これにはケベック、五大湖およびオハイオ川流域の全てを含む領土を得た。 またスペイン領だった東フロリダと西フロリダも獲得した。 13植民地から外国の脅威を排除することで、植民地人が自らを防衛する必要性がほとんど無くなった。 イギリスと植民地人は共通の敵に対して共に戦い勝利した。 母国に対する植民地人の忠誠心は戦前より強くなった。 しかし、植民地内の不統一も形成され始めていた。 イギリスのピット首相は植民地の軍隊を使うことで植民地での戦争を遂行し、資金はイギリス本国に課税することで賄うことにしていた。 これは戦時の戦略としては成功だったが、戦争が終わると双方は互いよりも大きな重荷を負っていると考えた。 イギリスの特権階級はヨーロッパの何処よりも重い税を掛けられており、植民地人がイギリスの国庫にほとんど金を納めていないことを怒りをもって指摘した。 植民地人は彼らの息子達が戦って死んだのは自分達の利益よりもヨーロッパの利益に多く貢献したと反応した。 この論争はその後にアメリカ独立をもたらすことになる一連の出来事に繋がっていった。 イギリス帝国への結びつき 各植民地は互いに大変異なってはいたが、文字通りの一部のままだった。 社会的には、、ニューヨーク市、チャールストンおよびの植民地は自分達をイギリス人と考えていた。 多くの者はイギリスに行ったことも無かったが、服装、ダンスおよびエチケットなどイギリスの様式を模倣した。 この社会的はジョージア様式の邸宅を建て、の家具デザインを真似し、というヨーロッパの知性の流れに迎合した。 住人の多くにとって植民地アメリカの海港都市はイギリスの都市そのものだった。 植民地の政治機構の多くはイギリスの指導者、特に著名なものとしてコモンウェルスマンとの伝統である者達が表明したを採用した。 当時のアメリカ人の多くは、植民地の統治制度ををモデルにしていると考え、国王は知事に相当し、イギリスのは植民地議会に、は知事諮問委員会に相当すると見なした。 植民地の法典はから直接引いてくることが多かった。 実際にイギリスのがカナダだけでなくアメリカ合衆国全体で生き残っている。 つまるところこれら政治的理想の幾つかの意味するもの、特にとに関する論争がアメリカ独立に向かっていくことになった。 植民地人がイギリスと異なるというよりも類似していると考えたもう一つのポイントは、急増するイギリス商品の輸入についてだった。 イギリス経済は17世紀の終わりに急激な成長を始め、18世紀半ばまでにイギリスの小さな工場が国内で消費する以上のものを生産するようになった。 イギリスの商人は得意客に寛大な信用払いを提供したので、アメリカ人は大量のイギリス製品を買うようになった。 ノバスコシアからジョージアまで全てのイギリス臣民が類似した製品を購入し、ある種英国化された共通の感覚を持つようになった。 統一から革命 王室宣言 1763年のパリ条約締結後間もなく持ち上がった不平等の大衆感覚は、を越えて西に開拓者が入ることを一時的に禁じたではっきりしてきた。 植民地人はこれに不満であり、その禁制は守られなかった。 イギリス議会の法令 イギリスの議会は概してヨーロッパの事情に捉われており、植民地の統治は植民地に任せるようになっていた。 しかしそうしてもおれなくなった。 この政策変更から生まれた下記のような一連の法制がニューイングランドの植民地に直接影響し、その後の13年間で13植民地に次々と反対運動を巻き起こした。 通貨法(1764年)• (1764年)• (1765年)• 第一次宿舎法(1765年)• 宣言法(1766年)• (1767年)• (1773年)• 、 高圧的諸法あるいは 懲罰的諸法とも呼ばれた• 第二次宿舎法(1774年)• (1774年)• マサチューセッツ統治法(1774年)• 裁判権法(1774年)• ボストン港法(1774年)• 通商禁止法(1775年) 植民地の生活 ニューイングランド ニューイングランドでは、ピューリタンが農夫すなわちとその家族の宗派による自治社会を創り出した。 高いレベルの政治家が男性開拓者すなわち土地所有者達に土地区画を分け与え、土地所有者達が自分達の間で割り当てを決めた。 土地の大きな区画は社会的に高い地位にある男性に与えられるのが通常だったが、白人のあらゆる男性は家族を養うに足るだけの土地を持った。 さらに重要なことは白人のあらゆる男性が町の集会で発言権があったことだった。 町の集会は税金を課し、道路を建設することを決め、町の諸事を行う役人を選出した。 ピューリタンが設立したは、神は救済に値する数少ない人のみを選び出すという信仰があったために、ニューイングランドの全ての住民が自動的に参加したわけではなかった。 実際に教会員になるには教会員の前で救われてきたことを納得のいくように「テスト」できる者に限られた。 農園の生活 ニューイングランド住人の大多数は小農だった。 これら小農の家族の中では、またイングランド人家族も男性がその資産と妻に対して絶対的権力を持った。 イングランド人女性は結婚すると旧姓と個人としてのアイデンティティを失ったので、寡婦になったとしても、自己資産を持てず、訴訟を起こせず、政治に参加できなかった。 妻の役割は健康な子供を産んで育てることであり、その夫を支えることだった。 大半の女性はこの義務を遂行した。 18世紀半ばに女性は通常20代初期に結婚し、6人から8人の子供を産み、子供達は大抵成人まで育った。 農家の女性は羊毛から毛糸を紡ぎ、セーターやストッキングを編み、蝋燭や石鹸を作り、ミルクを攪拌してバターを作ることで家族が必要とする物資の大半を供給した。 18世紀から19世紀半ばの経済成長 ニューイングランドの大半の親はその息子達が自分達の農園を築くのを援助しようとした。 息子たちが結婚すると父親は土地、家畜あるいは農機具を贈り物にした。 娘達は家財道具、農園の動物あるいは現金を受け取った。 は大変稀だった。 通常は子供達が宗教や社会的地位の同じような適当な知り合いの輪の中から配偶者を選んだ。 両親は子供達の結婚について拒否権を持っていた。 ニューイングランドの農家は通常木材が豊富だったので木の家に住んだ。 ニューイングランドの典型的な農家は中2階建てで強い枠組み(通常は大きな角材で造られた)を持ち、木製のよろい張り下見壁板で覆われた。 調理のためと冬季の暖房のために家の中心には大きな煙突が立てられた。 1階部分の一端にはホールがあり、家族が働いたり食事を摂る多目的の部屋として使われた。 ホールに隣接して客間があって客をもてなすために使われ、家内で一番の家具や両親のベッドが置かれた。 子供達は上のロフトで寝み、台所はホールの一部にあるか、家の裏の物置部分にあった。 植民地時代の家族は大きかったので、このような小さな家屋では多くのことが行われ、ほとんどプライバシーは無かった。 18世紀半ばまでに、このような生活様式は危機に直面していた。 地域人口は1700年の10万人から1725年の20万人、1750年の35万人と、世代ごとにほぼ倍増したが、これは各家族が多くの子供を抱え、多くの者は60歳まで生きたからだった。 マサチューセッツ、コネチカットおよびロードアイランドの植民地人は農夫の間でその土地を小分けし続けていたので、農場はあまりに小さくなり、一つの家族を養えなくなった。 この過剰な人口によってニューイングランドの独立したヨーマン農夫による理想の社会が脅かされるようになった。 農夫の中にはマサチューセッツやコネチカットの未開の地で農場を作るために土地特許を得るか、ニューハンプシャー、後にとなった所で土地投機家から土地区画を購入する者がいた。 農業の革新者になる農夫もいた。 やのような家畜の餌になるイングランドの滋養のある草を植え、生産性が高くて小農にも利益になるを育てた。 農家の家族は互いに商品を交換したり労働を助け合うことで生産性を上げた。 彼らは家畜や放牧地を貸し借りし、共同して毛糸を紡ぎ、を縫い、トウモロコシの皮をむいた。 移住、農業の確信および経済的共同作業によって19世紀までニューイングランドのヨーマン社会を保存する創造的手段となった。 町の生活 18世紀半ばまでにニューイングランドでは造船が主要産業になった。 イギリスの王室は安価で頑強なアメリカ製船舶に目を向けることが多かった。 ニューイングランドにある川の河口ほとんど全てに造船所があった。 1750年までに様々な職人、商店主および商人が成長する農民のためにサービスを提供した。 鍛冶屋、車輪修理工および家具職人が地方の村に店を構え、そこで農家が必要とする商品を作ったり修理したりした。 衣類、鉄製具、窓ガラスなどイングランドの製品や、砂糖やなど西インド諸島の製品を売る商店は貿易業者が開店した。 これら店舗の商店主は農作物や屋根板、、樽板など地元製品と引き換えに輸入した商品を販売した。 これら地方産の製品は大西洋岸の町や都市に運ばれた。 企業家はこの輸送のために荷馬車道に沿って馬小屋や酒場を作った。 これらの製品がマサチューセッツのボストンや、コネチカットのおよびロードアイランドののような港町に運ばれた後、商人はそれらを西インド諸島に輸出し、糖蜜、砂糖、金貨および交換手形と取引した。 彼らは西インド諸島の製品をニューイングランドの工場に運び、そこで生のサトウキビが砂糖に精製され、糖蜜はに醸造された。 金や交換手形はイングランドに送られて商品と交換され、その商品が植民地に運ばれて砂糖やラム酒と共に農家に売られた。 ニューイングランドの商人には大西洋岸の豊かな漁場を利用して、大規模な漁業船隊を手当てし、収穫物のやを西インド諸島やヨーロッパに運んで利益を出す者もいた。 またある商人は海岸やニューイングランド北部の河川で大量の木材を取引した。 彼らは製材所を造って家屋や船舶のために安価な木材を供給した。 ニューイングランドの数百の造船工は外洋航行船舶を建造し、イギリスやアメリカの商人に販売した。 多くの商人はその商品を農民に供給することで大きな富を掴み、海港都市の社会を支配するようになった。 ヨーマン農家とは異なり、これら商人はイングランド上流階級の生活様式を真似て、新しいジョージア調で設計された中3階建て家屋に住んだ。 これらジョージア調家屋は対称的ながあり、中央のドアの両側に同じ数の窓があった。 内部には家の中心を通る廊下があり、その両側に図書室、食堂、きちんとした客間、および家主の寝室といった用途を持った部屋があった。 ヨーマンの家にある多目的なホールや客間とは異なり、これらの部屋はそれぞれ異なる目的のために使われた。 ジョージア調家屋では、男性が主に図書室のような特定の部屋を使い、女性は大半が台所を使った。 これらの家屋には二階に寝室があり、両親も子供達にもプライバシーが保たれた。 文化と教育 マサチューセッツホール、ハーバード大学で最古の現存する建物、1718年-1720年に寮として建造 ニューイングランドでは初等教育が普及した。 初期ピューリタン開拓者は聖書を勉強することが必要だと考えたので、子供達は早い段階で読むことを教えられた。 それぞれの町は初等教育の費用を出すことも求められた。 少年の大半は父から農業技術を習うか、職人の所に徒弟奉公に出された。 正式な学校に入学する少女は少なかったが、大半は家庭あるいは基本的な読み書きが女性自身の家で教えられたいわゆる「ダーム・スクール」(おばさん塾)で幾らかの教育を受けることができた。 ピューリタンは1636年に、1701年にを設立した。 その後が1764年にロードアイランド・カレッジ(現在の)、会衆派教会が1769年にを設立した。 バージニアでは1693年にを設立していた。 この大学は主として牧師、弁護士あるいは医者を目指す者にアピールしていた。 独立した神学校あるいはロースクールというものは無かった。 ニューイングランド人は日記、小冊子、書籍および特に説教を著したが、これは他の植民地を併せたよりも量が多かった。 ボストンの牧師であるが『マグナリア・クリスティ・アメリカーナ』(アメリカにおけるキリストの偉大な仕事、1702年)を出版し、信仰復興論者のジョナサン・エドワーズはその哲学書「慎重で厳密な質問... 自由意志の... 』(1754年)を著した。 音楽の大半には宗教的なテーマによって作られ、主にが歌われた。 ニューイングランドでは信仰心が篤かったので、十分に宗教的ではなかったりあまりに「世俗的な」芸術作品特に劇は禁じられた。 宗教 植民地アメリカに移民してきた者達の中には信仰の自由を求めてきた者がいた。 ロンドンは植民地にイングランド国教会の機関を作らなかった。 司祭も派遣しなかったので、宗教は多様化した。 「」は1730年代と1740年代に大半の植民地で起こった大きな宗教復興運動だった。 この運動は、ピルグリムの厳格なのルーツへの復帰と「神の畏れ」の覚醒を求めたマサチューセッツの説教師によって始められた。 イギリスの説教師など遊歴する説教師が運動を続け、植民地を巡って劇的で感情を揺り動かすスタイルの説教を行った。 エドワーズの追随者やその他同じ様に信心深い説教師が自分達のことを「ニューライト」と呼び、彼らの運動を不可とした「オールドライト」と対照させた。 彼らの見解を普及させるためにこの双方がやなど学校やカレッジを設立した。 「第一次大覚醒」は真のアメリカ人による最初の出来事と言われてきた。 類似した敬虔な信仰復興運動がドイツ人やオランダ人の開拓者の中で生まれ、別の会派を生むようになった。 1770年代までにバプテストは北部でも南部でも急速に成長した。 北部ではブラウン大学を設立し、南部では以前に問題にされなかったイングランド国教会の道徳的権威に異議を申し立てた。 大西洋岸中部 大西洋岸中部はニューイングランドとは異なり、新しい移民によって人口が増え、1750年までにニューヨーク、ニュージャージー、およびペンシルベニア各植民地を合わせた人口は30万人近くまで達していた。 この年までにアイルランド人約6万にとドイツ人約5万人がイギリス領北アメリカに渡って来ており、その多くは大西洋岸中部に定着した。 1682年にペンシルベニア植民地を創設したは、信仰の自由と不動産の自由保有権という政策によって移民の流入を奨励した。 「不動産の自由保有権」とは農夫がその土地を無料で所有し、賃貸ではないことを意味した。 最初に移民の流入が起こったのは主にアイルランドからだった。 多くのドイツ人は宗教的な紛争から逃れ、ドイツやでの減退しつつあった経済機会を避けて来ていた。 生活様式 大西洋岸中��の建築の多くはその民族の多様性を反映していた。 ニューヨーク植民地のやニューヨーク市では、建物の大多数がオランダ様式で、煉瓦の外装と両端の高い破風が特徴であり、多くのオランダ教会は八角形のように造られた。 ペンシルベニアのドイツ人やウェールズ人開拓者は母国でのやり方に倣ってその家屋に切り石を使い、この地域に多量にあった木材は完全に無視した。 一方、アイルランドからの開拓者はアメリカで豊富に得られる木材を活かして堅牢なを建設した。 民族の文化は家具の様式にも影響した。 田園部のクエーカー教徒はテーブル、椅子、チェストのような家具に単純なデザインを好み、華美な装飾を避けた。 しかし都会のクエーカー教徒は精巧な細工の家具を所有した。 フィラデルフィア市はクエーカー教徒やイギリス人商人の大きな富があったために家具製作の大きな中心地になった。 フィラデルフィアの家具職人は優美な机や箪笥を製作した。 ドイツ人の職人はそのチェストなどの家具に手の込んだデザインを施し、花や鳥のある景色を描いた。 ドイツ人陶器工は優雅で伝統的なデザインのジャグ、ポットおよび皿を多く制作した。 女性の待遇についても民族による違いがあった。 ニューイングランドのピューリタン開拓者では、妻が夫と一緒の畑で働くことはほとんど無かった。 ペンシルベニアのドイツ人社会では多くの女性が畑や馬小屋で働いた。 ドイツ人やオランダ人の移民は女性がその資産を管理することを認めたが、これはイギリスの法律では認められていなかった。 イギリス植民地の妻とは異なり、ドイツ人やオランダ人の妻は自分の衣類など物品を所有し、結婚する時に持ってきた資産の処分について遺書を書くこともできた。 白人の約8. 農業 民族の多様性は農業のやり方にも違いを生んだ。 その例として、ドイツ人農夫は通常鋤を引かせるのに馬よりも牛を好み、スコットランド系アイルランド人はブタやトウモロコシを基本にする農業経済だった。 アイルランドでは、農夫が懸命に働き、小さな土地から可能な限り生産性を上げて行こうとしていた。 アメリカの植民地では、アイルランド北部から来た開拓者が混合農業を目指した。 このやり方で、人が食し、ブタなど家畜の餌にするためにトウモロコシを育てた。 あらゆる異なる出自の農夫が改善を志し、その結果を残す為に新しい農業手法を使い始めた。 1750年代、これら農業の改革者は干草、小麦および大麦の収穫に用いた鎌や大鎌を、穀物の束を集めやすい木の柄のついた揺動鎌に置き換えた。 この道具で農夫が一日にできる作業を3倍にした。 農夫は肥やしや農業用石灰を使って土地を肥やし、土壌を肥沃にしておくためにも始めた。 1720年以前、大西洋岸中部の植民地人の大半は小規模な農場で働き、西インド諸島にトウモロコシや小麦粉を輸出することで輸入された商品を購入した。 ニューヨークでは生皮をヨーロッパに輸出することで地域にさらに富をもたらした。 1720年以降、大西洋岸中部の農業は小麦に対する国際的な需要で潤った。 ヨーロッパにおける人口の爆発は小麦価格を上昇させた。 1770年までに、小麦1ブッシェルの価格は1720年の2倍になった。 アイルランドの産業でが大きく求められたことや西インド諸島でトウモロコシの需要があったので、亜麻仁やトウモロコシの生産高も上げていった。 到着したばかりの移民の中には農場を購入しこの輸出による富を共有できた者もいたが、多くの貧しいドイツ人やアイルランド人の移民は農業労働者として働くことを強いられた。 商人や職人も衣類などの商品を国内で製作するために、これら家の無い労働者を雇用した。 商人は農夫から羊毛や亜麻を買い、その家で材料を毛糸に紡ぎ衣類にするために、アイルランドやドイツで繊維工場の労働者だった到着したばかりの移民を雇用した。 大規模農場主や商人は富が増し、小規模農場主や職人は生きていくだけの稼ぎしか得られなかった。 大西洋岸中部では1750年までに民族的出自と富の双方で分化が進んだ。 海港 小麦貿易で拡大した海港では大西洋岸中部の何処よりも社会階級の分化が進んだ。 1750年までにフィラデルフィアの人口は25,000人に達し、ニューヨークには15,000人、には7,000人がいた。 商人が海港の社会を支配し、約40人の商人でフィラデルフィアの貿易の半分を支配した。 裕福なフィラデルフィアとニューヨークの商人は、ニューイングランドの商人に似て、優美なジョージア調の邸宅を建設した。 商店主、職人、造船業者、肉屋、桶屋、裁縫師、靴屋、パン屋、大工、石工、など多くの専門化した職種が海港社会の中間層を占めた。 妻や夫はチームで働き、子供達にその技能を教えて家族に継承して行った。 これら職人や貿易業者の多くはそこそこの生活をするだけの資産を作った。 労働者が海港社会の底辺にいた。 これら貧しい人々は到着する船から荷を降ろし、出港する船に小麦、トウモロコシおよび亜麻仁を積むためにドックで働いた。 その多くはアフリカ系アメリカ人であり、その中でも自由を得た者や奴隷になった者もいた。 船員の多く、その中にはアフリカ系アメリカ人もいたが、商船の水夫として働いた。 南部植民地 南部植民地は主に、メリーランド、バージニアおよびサウスカロライナ各植民地の富裕な奴隷所有農場主によって支配されていた。 農園主は広大な土地を所有し、アフリカ人奴隷を働かせた。 農園主はその富を使って土地の小作人やヨーマン農夫を支配した。 選挙があるときには、これら農夫にラム酒を贈り、低い税金を約束して植民地の議会を支配した。 プランテーション 植民地初期の苦しく飢えのあった時代の後の1720年代から、農園主の次の世代は大きなジョージア調の邸宅を建設し始め、馬の背で鹿を狩った。 南部植民地の裕福な女性はイギリスの文化も共有した。 彼女達はイギリスの雑誌を読み、イギリスデザインの流行の服を着し、優雅な午後の紅茶を楽しんだ。 繁華な海港であるサウスカロライナのチャールストンでタウンハンスに住む米プランテーション所有者が最も成功した例だった。 メリーランドののような町やバージニアのに沿ったタバコ・プランテーションでは活動的な社交シーズンがあった。 奴隷 、タバコおよび米の畑で働いたアフリカ人奴隷は西アフリカや中央アフリカから来ていた。 植民地アメリカの奴隷制は世代から世代に移るにつれて大変抑圧的なものになり、奴隷は法的権利を持たなかった。 砂糖やコーヒーのような商品の生産に特化した植民地は最も奴隷に依存し、その結果新世界でも最も高い(奴隷を含む)一人当たり生産高を示した。 しかし、奴隷は大変貧しく生きていくだけのものしか与えられなかった。 1700年、チェサピーク湾地域には約9,600人の奴隷がおり、カロライナには数百人がいただけだった。 それから50年間に約17万人のアフリカ人が到着した。 サウスカロライナの奴隷の大半はアフリカ生まれであり、バージニアとメリーランドの奴隷の半分は植民地で生まれていた。 関連項目• 参考文献• Ciment, James, ed. 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